寛永11年(1634)11月7日、いよいよ敵討ちの朝を迎えます。 午前5時、又右衛門・渡辺数馬らは鍵屋の辻の西南角にある「萬屋」という茶屋で仕度を整えます。 又右衛門らは敵討ち前に「いわし」を食したと記録が残っています。 このあたりの方言で、「言わす」は相手を降参させるという意味なのだそうで、「いわし」は縁起がよかったのです。 現在、萬屋があった場所には、「数馬茶屋」という茶店が建てられています。 江戸時代にタイムスリップしたかのような、風情のあるお店です。「数馬茶屋」では、又右衛門らが食した料理を再現した定食などを味わうことができます。
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そして、いよいよ敵討ちが始まります。又右衛門の書いた「敵討助太刀始末書」に拠ると、戦いは辰の上刻(午前8時)に始まって、終わるまでに6時間を要したとあり、大変な闘いでした。 双方のメンバーはというと、又右衛門側は、又右衛門に渡辺数馬、河井武右衛門、森孫右衛門の4名。敵側は、河合又五郎、河合甚左衛門、桜井半兵衛、溝口八左衛門など20名あまり。4対20では又右衛門側が不利に見えますが、敵側には槍持ち、小者、馬士などほぼ戦力にならないような面々が含まれているため、実質4対4といったところ。講談などでは、「荒木又右衛門の三十六人斬り」が有名ですが、実際には36人も斬る相手はいなかったようです。 また、『伊賀越』の人形浄瑠璃の語りでは 「股五郎相人に和田志津馬、手利きと手利きの晴勝負」 とありますが、実は又五郎(『伊賀越』では股五郎)も数馬(『伊賀越』では志津馬)も剣術はあまり得意でなかったよう。それで決着がつくまでに時間がかかってしまったようです。『累世記事』には、数馬はなんとか又五郎を討ち果たしたものの、深手を負っていたとあります。
歌舞伎や文楽で敵討ちの場面が上演される時は、背景に伊賀上野城が描かれています。鍵屋の辻から城までは1kmほどではありますが、現在は建物に遮られて、鍵屋の辻から伊賀上野城は望めないようです 最後に、鍵屋の辻の周辺情報をお伝えします。次の記事をご覧ください! →鈴木多美解説員と巡る『伊賀越道中双六』敵討ちの舞台B〜伊賀上野を楽しむ〜 前の記事を見る →鈴木多美解説員と巡る『伊賀越道中双六』敵討ちの舞台@〜”鍵屋の辻”の現在〜
※この記事は、イヤホンガイド解説員・鈴木 多美の監修・資料提供のもと、イヤホンガイド営業部で作成いたしました。
参考資料: ・長田午狂「実説 伊賀の仇討」国立劇場芸能調査室編『伊賀越道中双六 上演資料集』2号(1967年3月発行) ・延広真治「「伊賀越道中双六」の成立」国立劇場文楽公演筋書(1998年5月発行)