くまどりん イヤホン解説余話
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金閣寺(きんかくじ) 歌舞伎座 昼の部

雪舟の孫
国家横領を企み、時の足利将軍を謀殺し、将軍の山荘、金閣寺に立てこもった松永大膳(だいぜん)は名画家、雪舟(せっしゅう)の孫、雪姫に「金閣寺の天井に龍の絵を描け」と命じます。ところが姫が断ったため、彼は姫を虜にし、さらにその美しさにも魅かれています。

やがて雪姫は自分の父を殺したのが大膳であると知り、父の敵を討とうと斬りつけるのですが、逆に桜の大木にくくりつけられてしまいます。
我が国、水墨画の第一人者
さてこのお芝居で雪姫の祖父とされている雪舟は室町時代に活躍した有名な画僧です。1420年、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)の小田氏という武家に生まれた彼は、幼い頃、近くの宝福寺へ入門。10歳で京の相国寺へ移り、「禅」を学ぶとともに絵も修行しました。48歳で明(今の中国)に渡ると、約2年間、水墨画を本格的に学び、帰国後はその技で日本の水墨画を一変させたといいます。
エピソードの方が有名
彼の作品は「天橋立図」(国宝)、「秋冬山水図」などが今に伝わっています。しかし雪舟という名から、これらの画が浮かぶ方はまずいらっしゃらないでしょう。50歳以上の方でしたら、むしろ彼のあるエピソードを想い起こされるはずです。そのお話は昔の教科書には必ずと言ってよいほど載っていましたし、絵本にもなっていました。

涙で描いたネズミ
そのお話はといいますと…。

雪舟作『秋冬山水図』
 

後に雪舟となる少年は、前述のように、宝福寺に入ったものの、修行そっちのけで好きな絵ばかり描いていました。それに腹を立てた住職は、ある朝、彼を本堂の柱に縛りつけてしまいます。夕方、住職が覗いてみると、少年の足もとで大きなネズミが動いています。住職は、少年が噛まれては大変と、追い払おうとしましたが、不思議なことにネズミは動きません。それもそのはず、そのネズミは、少年が足の親指を筆代わりに、こぼした涙で床に描いたものだったのです。動いたようにみえたのは、ネズミの姿が実に生き生きととらえられていたからでした。それからは、住職は少年が絵を描くのをとがめなくなりました。
おじいさん譲り
このお話は、江戸時代の初めに狩野永納(かのうえいのう)という画家が書いた「本朝画史(ほんちょうがし)」という本に初めて登場したといいますが、本に載るくらいですから、その頃にはすでに多くの人びとが知っていたことでしょう。名人、巨匠につきものの「幼い頃に奇跡を起こした」というお話のひとつです。

お芝居の雪姫も、祖父雪舟のこの話を思い出し、降り積もった桜の花びらをキャンバスに、つま先で・・・。「つま先鼠」と呼ばれる、このお芝居の大きな見所のひとつです。
 
「増補忠臣蔵(ぞうほちゅうしんぐら)」 国立小劇場 第一部

仇討の一因を作った男
加古川本蔵は高師直(こうのもろのお)に斬りつけた塩冶判官(えんやはんがん)を抱きとめました。それ故、判官は師直を仕留めることがかなわず、その無念を受け継いだ塩冶浪人達は・・・。
ご存知の『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』では本蔵は仇討の一因を作った立場なので、九段目では主役を張るもののメインストーリーからは外されています。その本蔵にスポットを当てたのがこの『増補・・・』。本蔵の話を増やし補ったわけです。
お使いに来たばっかりに
実際の元禄の赤穂事件で、本蔵に当るのは梶川与惣兵衛頼照(かじかわよそべえよりてる)です。彼は700石取りの旗本、すなわち将軍にお目見えできる地位であり、江戸城本丸を守護したり、大奥の庶務を担当していたといいます。
浅野内匠頭(たくみのかみ)が吉良上野介(きらこうずけのすけ)に刃傷に及んだ元禄14年3月14日は将軍が天皇からの使い、勅使(ちょくし)をもてなす日でした。当日、梶川は将軍の御台所の贈物を届けるよう、お使いを仰せつかって、現場に遭遇。

刃傷事件ドキュメント

彼は事件を日記風にまとめ、残していて「梶川氏筆記」あるいは「梶川氏日記」といわれます。それによると「誰かが吉良殿の後ろから『この間の遺恨覚えたるか』と声をかけ、切りつけた。吉良殿は驚いて振り向いたところをまた切りつけられ、私の方へ逃げようとして、さらに二太刀ほど切られ・・・」という顛末だったよう。ただ吉良を治療した医師、栗崎道有(どうゆう)の日記では、まず眉間を切られ、それで背を向けた拍子に背中を切られたのでは・・・、としているといいます。

一転、非難されて

梶川は当時50歳台のなかばではありましたが、大力だったので、35歳の内匠頭を取り押さえることができ、その功により、500石加増されたという記録もあるそうです。


皇居東御苑(旧・江戸城本丸)に建つ刃傷事件現場
「松之大廊下」跡の碑

しかし後に、世間は浅野を贔屓(ひいき)し、梶川は非難されるはめになりました。赤穂浪士が討入りする時に読み上げた「口上書」にも、「右、喧嘩(けんか)の節、ご同席におん押し留めのお方これあり、上野介討ち留め申さず・・」とあります。“ おん押し留めのお方 ”とはもちろん梶川です。
複雑な胸のうち
後年の梶川の日記には「内匠頭の心中を察すれば、さぞ無念であったろう。とはいえ何分にも不慮の急変ゆえ、とっさに抱き止めていた。内匠頭には気の毒ながら、公儀(こうぎ、幕府)に対しては当然こうあるべき・・・」と複雑な胸中が記されています。江戸城内で刃傷があって「ただ見ていた」では梶川も許されなかったのです。

 
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