近、中、遠3ランク
主人公 俊寛は、平家打倒を企て、平清盛により鬼界ヶ島(きかいがしま、現・鹿児島県硫黄島)へ流されました。
日本の「流罪」は古代、神の怒りに触れた者を島に捨て殺しにしたのが始まりとか。
奈良、平安の頃は、唐の制度にならい、罪の重さに応じて流刑地を遠ざける「近流(きんる)=備前、安芸」、「中流(ちゅうる)=信濃、伊予」、「遠流(おんる)=安房、伊豆、常陸、佐渡、隠岐、土佐」の3ランクがあったとされます。ただ時の為政者の気分次第でさらに遠くされることもあったよう。俊寛を鬼界ヶ島まで流した清盛の憎しみはさぞ強かったのでしょう。
命が縮む流人暮らし
流刑者は必ず妻を同行させられ(他の家族は希望すれば可)、流刑地の戸籍へ。つまり一生帰れず、たいてい2年ほどで亡くなったといいます。「老後は田舎でスローライフ」が流行る昨今とは想像を絶する環境の違いだったということでしょう。
後に例外的に帰還を許される「非常赦(ひじょうしゃ)」が施されるようになったといい、俊寛に連座した平康頼、藤原成経が帰れたのはその一例です。
佐渡金山は地獄
江戸時代は、大坂からは薩摩、隠岐、天草あたり、江戸からは伊豆七島がおもな流刑地だったとか。また戸籍から外された無宿者(むしゅくもの)が罪を犯すと、佐渡送りになり、佐渡金山の湧き水を汲み出す水替え人足として強制労働。これは本当に悲惨だったということです。
明治になると蝦夷(えぞ、北海道)へ流され、監獄へ入れられたようですが、新しい刑法が制定された明治41年(1908年)、流罪は廃止されました。
流罪は世界基準
いわゆる文化人では、世阿弥が佐渡へ(理由は不明)、画家、英一蝶(はなぶさいっちょう)は時の将軍と愛人のツーショットを描いて風刺した咎で八丈島(三宅島とも)へ流されたといいます。
菅原道真、崇徳(すとく)天皇、源為朝、江島生島ら流罪にされた人物のお芝居はいろいろあるなか、「俊寛」は海外でも上演され、大いに共感を呼びました。ナポレオンがセントヘレナ島へ流された例を引くまでもなく、流罪はグローバルな背景だからでしょう。 |
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鹿児島市にある俊寛の碑(流刑の地へ船出した所) |
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