くまどりん イヤホン解説余話
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秋葉権現廻船語(あきばごんげんかいせんばなし) 駄右衛門花御所異聞(だえもんはなのごしょいぶん) 
歌舞伎座 夜の部

広重の浮世絵
今月は夜の部で『秋葉権現廻船語(あきばごんげん かいせんばなし) 駄右衛門花御所異聞(だえもん はなのごしょ いぶん)』が上演されていることにちなみ、歌川広重の『東海道五拾三次』の内「掛川」をご紹介します。広重は東海道五十三次を題材に多くの浮世絵を作成していて、ここではまずはその内、代表的な保永堂版(1834年)を取り上げます。
絵の上の方に「東海道五拾三次之内 掛川」と書かれ、その左に「秋葉山遠望」と朱印されています。ここは掛川宿の西のはずれ。倉真(くらみ)川に架かる大池橋。この少し西から、火伏の神として信仰された秋葉権現へ参詣道が分かれていました。空高く揚がる丸凧は袋井などこの地方発祥のもの。田植えをする農民が描かれているので、季節は5月。凧揚げは正月のほか、子供の成長を願って端午の節句の行事として5月にも行われました。右奥に描かれているのが秋葉山(866m)。その山頂近くに秋葉権現がありました。江戸時代には火伏(ひぶせ:神仏が霊力によって火災を防ぐこと)、病苦・災難除け、生業・心願の神として関東・東海・北陸地方で信仰され、秋葉講(秋葉参りの

歌川広重作『東海道五拾三次』
の内 「掛川」(保永堂版)

ための宗教的互助組織)が組織され、多くの人が秋葉山へ詣でました。画面中央の老夫婦もこれから秋葉山へ詣でるところかもしれません。

秋葉山

秋葉山は718年に行基が開いたとされ、初めは大登山霊雲院と呼ばれました。本尊は行基作と伝えられる聖観音像の仏教寺院でした。その後、遠江天狗の総帥とも言われる秋葉山三尺坊(実際は信州戸隠生まれの修験者か)が白狐に乗って諸国を巡り、809年に秋葉山に降り立ったという伝承があり、今月上演の『駄右衛門花御所異聞』二幕目にその様子が描かれています。嵯峨天皇の御代(810~823年)に秋葉山秋葉寺(しゅうようじ)と改称され、戦国時代に荒廃した後、徳川家康の隠密として活躍した茂林光幡が秋葉寺別当に任じられます。光幡は寺を再興するため、寺の宗旨を曹洞宗に変えますが、修験系の色合いが強い神仏混淆の寺という点は変わらず、秋葉権現として江戸時代を通じ、篤く信仰されるようになります。明治時代になり、神仏分離令により、寺の堂宇は破壊されますが、明治6年(1873年)に麓の住民の願いにより、火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)を祭神とする秋葉神社が山頂に建立され、明治13年(1880年)には寺僧が麓に秋葉寺の堂宇を建立しました。
なお、行書版(1842年)、隷書版(1849年)の『東海道五拾三次』「掛川」には、東海道から秋葉山への分かれ道にあった秋葉権現の鳥居とその脇に秋葉講が建てた常夜灯が描かれています。

日本左衛門

また、日本駄右衛門のモデル 日本左衛門(本名:濱島庄兵衛)(1719~1747年)は街道筋の諸国を荒らしまわったのちに京都の町奉行に自首し、江戸に送られて処刑されました。彼が本拠としていたのは遠江国なので、見附(掛川の2つ西)・金谷(掛川の2つ東)の宿の近くに史跡も残っています。首は遠州見附(静岡県磐田市見付)にさらされ、左衛門の愛人おまんが持ち去り弔ったという言い伝えがあり、磐田市見付の見性寺(けんしょうじ)には日本左衛門の供養塔が、大井川西岸の宅円庵(静岡県島田市金谷)には首塚があります。
日本駄右衛門は現在では1862年初演の『青砥稿花紅彩画』(『弁天娘女男白浪』)の登場人物としてご存知の方が多いかもしれません。
歌川広重作『東海道五十三次』之内
「かけ川 秋葉道追分之圖」(行書版)

『東海道五十三次』の内
「東海道 廿七 五十三次 懸川 秋葉山別道」
(隷書版)
 
「源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき)」 国立文楽劇場 第2部

運動会も歌合戦も
お芝居では笹竜胆(ささりんどう)の紋所がついた源氏の白旗が多くの人の手に渡り、前途危うい源氏一族を象徴します。その白旗に対し、このお芝居で源氏の胤(たね)を根絶やしにしようと躍起になる平家のシンボルは赤旗でした。
紅白に別れて競う姿は、今も、運動会や大晦日の歌合戦に受け継がれていますね。
白は清浄、赤は太陽?
さて「平家物語」などで広く知られるこの“ 源氏の白旗 ”、“ 平家の赤旗 ”の由来にはさまざまな説があります。「白」は神の清らかさを表し、源氏が八幡神を崇拝していたから、「赤」は太陽の色で、平家が、天照大神(あまてらすおおみかみ)を先祖とする天皇家の流れであるとアピールしたかったから、などなど。
白石先生もお手上げ
しかし実は、源平どちらも色の由来ははっきりしません。江戸時代の歴史家・政治家であった新井白石も「本朝軍器考(ほんちょうぐんきこう)」という書物で「源氏の部族がみな白旗というわけではない」、また「平氏の赤旗のいわれが書かれたものを見たことがない」としています。『元禄忠臣蔵』で徳川綱豊卿に講義するほど博識な白石先生でさえ、その確証は得られなかったようです。

頼りは色
源氏の「笹竜胆」、平家の「揚羽蝶(あげはちょう)」の紋は鎌倉、室町期を経て定まったそうですから、源平合戦の頃は旗に紋はなく、色を頼りに敵味方を見分けたのでしょう。
余談ですが、日本で染料が使われたのは奈良時代からで、主に植物を原料としていたといいます。赤は茜(あかね)や蘇芳(すおう)、青は藍(あい)、黄色はウコンなどを使って染め、明治期に科学染料が入るまで、この用法は千年近く変わらなかったとか。
旗の力
旗は、平家物語の頃は、馬上で旗指物をかかげたのですが、時代が下るにつれ、巨大になりました。戦における旗はたいへんに神聖な物で、室町期には「旗奉行、旗大将」の職が侍大将に次ぐNo2ポストだったといいます。
また旗は士気を高め、敗走を踏みとどまらせる効力があり、旗を奪われる=負けを公表する屈辱とされました。
陰の主役
お芝居では、源氏の白旗を守らんと、源義賢(よしかた)や小万(こまん)が命をかけ、斎藤実盛(さねもり)は、駒王丸(こまおうまる、後の木曾義仲)の誕生を白旗に祈ります。白旗が陰の主役とも言えましょう。

 源氏の白旗、平家の赤旗(須磨寺蔵)

 
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