くまどりん イヤホン解説余話
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「義経千本桜 渡海屋・大物浦(よしつねせんぼんざくら とかいや・だいもつうら)」 大阪松竹座 昼の部

落ち行く平家を率いて
「平氏にあらずんば人にあらず」と、さしも栄華を極めた平家も、平清盛が亡くなると、衰退の一途をたどります。
清盛の四男、知盛は、父亡き後の平家の実質的な指導者(本来は平宗盛)として、一門を率いました。清盛の孫にあたる安徳帝を奉じ、九州の大宰府へ落ちるも、一時は福原(神戸)まで勢力を挽回できたのは、ひとえに彼の軍事力によるといわれます。
ただその彼の力をもってしても、その後は一の谷、屋島で敗れ、寿永4年(1185)、ついに壇ノ浦で6歳の安徳帝をはじめ知盛らも海に没し、平家は滅亡しました。
波の下にも
安徳帝が入水するにあたり、祖母の二位尼(にいのあま、清盛の妻)は「今ぞ知る みもすそ川のおん流れ 波の下にも 都ありとは(今こそ知られることでしょう。伊勢神宮のみもすそ川の流れを汲む君には、波の下にも都があることを ※ みもすそ川は伊勢神宮の神域を流れる五十鈴川の異称)」と詠んで、怖がる帝をなだめたといいます。そうした悲愴なあり様は「平家物語」などで後世に伝えられ、永く人々の哀れを誘っています。
知盛は生きていた
お芝居はそれから2年後、実は知盛が生きていて、という設定です。彼は、これも生きていた安徳帝を娘のお安、帝の乳母、典侍局(すけのつぼね)を女房のお柳ということにし、大物浦(今の兵庫県尼崎市)の廻船問屋の主人に化け、宿敵、義経に復讐しようとしています。
ケイレンで確認
知盛の狙い通り、今は兄の頼朝から追われる身となった義経の一行が九州行きの船を頼みにやってきますが、義経は知盛の企みをとうに察していました。義経に従う弁慶は、寝ているお安をわざとまたいで、足が痙攣したことから、お安を安徳帝と確信。天皇であれば、その体をまたぐのは畏れおおいことで、何かたたりが起るはずだと考えたわけです。
再現ドラマ
知盛はそんなこととは露しらず、再び海上で義経に挑みます。お芝居の後半はあたかも、あの壇ノ浦を再現するように展開。
敗北を悟って、次々に入水する女官たち。安徳帝は「今ぞ知る・・・」をみずから辞世(じせい、最期に臨み、よむ歌)として詠じますが、いよいよという時、義経に救われます。

観念した知盛は帝の行く末を義経に託すと・・・。
鎧を重ねて

知盛は、壇ノ浦では「見るべきほどのことをば見つ」、華やかな全盛から惨めな敗走まで、人が生涯に味わうであろうことは全て体験した、と言い残し、その身が浮かばぬよう鎧を二枚着て海へ飛び込んだともされます。敗北を覚悟した彼には、さわやかささえ漂っていたように伝わっていますが、さてこのお芝居ではどんな最期を遂げますか。この幕一番の見所です。

母の元へ

安徳帝を生かすことにしたのは、何の罪もなく死んだ幼い帝を悼む人々の気持を汲んでのことでしょう。帝はやがて、これも壇ノ浦で入水したものの引き上げられ、今は大原の里に暮らす母、建礼門院(けんれいもんいん)の元へ届けられるのです。

壇の浦古戦場址の碑(山口県下関市)
 
「曾根崎心中(そねざきしんじゅう)」 国立小劇場 第二部

名人栄三に見込まれて
2006年9月24日に87歳で亡くなった人間国宝、人形遣いの初代吉田玉男師は、14歳で、当時58歳だった吉田玉次郎の弟子となりました。ほどなく初代吉田栄三に見込まれ、あまり動かない役の足遣いからスタート。名人、栄三はそれまでとかく型を重視しがちだった人形の演出を見直した人でした。
理詰めで芸術家肌
玉男師は生まれつき理詰めな性格だったことから栄三の考えに共感したようです。また近代屈指の義太夫節の名人、豊竹山城少掾(やましろのしょうじょう)とも通じる芸術家肌でもあったので、人形の動きを、極力、理にかなった上品なものにしようと努めました。
終生、玉男の名を通したのは、他にいい名があれば、あるいは「玉翁」になろうか、などと改名を考えたこともあったけれど、結局、このままが良い、と思い直したからだそうです。
性にあった徳兵衛
初代玉男師のこうした経歴や思想から師の出世作であり、生涯で1136回遣った「曾根崎・・・」の徳兵衛役がなぜ良かったかがわかります。つまりこの心中物には、それまでの義太夫狂言のような不合理なところがまったくないからです。
今もありそうな
例えば、徳兵衛が、九平次へ金を貸したのに、逆に「騙(かた)り」にされてしまった経緯に無理がないことがそうです。九平次から「ほんの数日」と乞われては、われわれでも断りきれないかもしれません。しかも「証文は良いように書いてくれ、“ サイン ”もそちらでしておいて」と言われるケースは、現代でも、友人同士ならありがちです。
もしこの時、徳兵衛に多少の警戒心が働いていたら、とは思うものの「遠い江戸時代、近松の昔にも現代社会と同じようなことがあったのだなぁ」と感じる方がたくさんおられるはず。そういう役なればこそ師に最適だったのでしょう。
理想的おじいさん
師が最後に遣った「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」の長右衛門役も、長右衛門とはこんな人物だったのだ、と納得できる、役柄そのものの存在感がそこはかとなく伝わるものでした。
初代玉男師はいつ会っても穏やかで丁寧な紳士。筆まめで、要領を得た文章から聡明な人柄がしのばれます。清潔感がある理想的なおじいさん、あんなふうに歳をとれたら・・・。


 
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