くまどりん イヤホン解説余話
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「祝勢揃壽連獅子(せいぞろいことぶきれんじし)」 歌舞伎座 昼の部
「連獅子(れんじし)」 巡業 松竹歌舞伎舞踊公演

能から
歌舞伎舞踊には能の「石橋(しゃっきょう)」から移した「石橋もの」というジャンルがあります。
能の「石橋」の筋は、昔、高僧が天竺(てんじく、今のインド)に渡り、神聖な「清涼山(せいりょうざん)」を訪れる。そこへ木こりが現れ、山の頂きにかかる石の橋のいわれを語り、奇瑞(きずい、めでたさの前ぶれ)が顕われることを予言して去る。するとはたして文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の使わしめとされる獅子が現れて、牡丹の花に戯れ、千秋万歳(せんしゅうばんぜい、長寿を祝うこと)の勇壮な舞を舞うというものです。
幅はわずか30センチ
能に描かれる「石橋」は、幅1尺(30cm)、長さ10丈(30m)で、橋から谷底までは、数千尺もあるといいます。「数千尺」を仮に5千尺として計算すると、その高さは約1.5km。高所恐怖症でなくとも普通の人では、橋を一歩も進めないことでしょう。能に出てくる高僧は、厳しい修行を積んでいたので、苦難の末にやっと渡ることができ、文殊菩薩がおられる浄土にたどりつけたというのです。
世界遺産の霊山
能では石橋があるのはインドの清涼山ということになっていますが、本来、清涼山は中国の山西省にあり、一般的には五台山と呼ばれます。台状の五つの峰からなる五台山は文殊菩薩の聖地とされ、峨眉(がび)山、天台山とともに中国仏教の三大霊場のひとつ。最盛期には300以上、今も47の寺院が建ち、元代(13〜14世紀)以降はチベット仏教の聖地ともなって、2009 年、ユネスコの世界遺産に登録されました。
はじめは女形が獅子に
さて能の「石橋」が歌舞伎化されると、様々な「石橋もの」が出来ました。歌舞伎舞踊は初めは女形の専売だったので、まずは女形がやる「相生(あいおい)獅子」、「枕(まくら)獅子」、「英執着(はなぶさしゅうちゃく)獅子」などが生まれました。これらは傾城(けいせい、高級遊女)が獅子と化するものです。やがて立役(たちやく、男性役の俳優)も踊るようになると、立役らしく、獅子の勇猛さを強調する作品がつくられました。
「石橋もの」=「獅子もの」

能は江戸時代まで武家のものでしたが、幕末から明治のはじめにかけ、一般に開放されると、歌舞伎でも「鏡獅子」や「連獅子」のように獅子の衣裳を能に倣ったり、能の詞章を借りるなど、能に近づけた作品がつくられました。これは明治期に「歌舞伎も近代化しなければ」という思いから強まった高尚志向によるものといえましょう。ただ歌舞伎では、時代はいつであれ、獅子の様子を楽しむことがメインだったので、「石橋もの」は「獅子もの」とも呼ばれます。ちなみに今回、歌舞伎座の「祝勢揃壽連獅子」は襲名する四人(親獅子一人、仔獅子三人)によるものです。

毛振りは歌舞伎オリジナル
「獅子もの」の見所は豪快な毛振りです。自分の身長より長〜い、いわゆる獅子の立て毛を振る所作を見せるのですが、これは元来の能にはなく、初期に女形が演じた頃にもなかった演出だそうです。毛を顔の前へ垂らし、左右に振るのを「髪洗い」、左右の床にたたきつけるのを「菖蒲(しょうぶ)打ち」、腰を軸にして振り廻すのを「巴(ともえ)」というふうに、振り方にそれぞれ名前がついています。
毛は“ ウシ科 ”

ではこの獅子の毛は何から作られているのでしょうか。実はヤクという動物の毛を白く、または赤く染めたものです。ヤクはチベットの高地が原産というウシの仲間です。現在は西アジアなどでも飼われ、労役に使うほか、毛や肉、乳などは利用価値が高く、現地の人々には欠くことができない家畜だといいます。その肩から伸びる長い毛が獅子の毛にされているのです。
獅子は邪気を払い、幸いをもたらすといわれます。俳優が汗して豪快、勇猛に舞う獅子の姿をご覧になれば、かならずや良いことがある でしょう。
チベットのヤク(Nathan Freitas氏撮影)
 
 
「増補忠臣蔵(ぞうほちゅうしんぐら)」 国立文楽劇場 第二部

仇討の一因を作った男
加古川本蔵は高師直(こうのもろのう)に斬りつけた塩冶判官(えんやはんがん)を抱きとめました。それ故、判官は師直を仕留めることがかなわず、その無念を受け継いだ塩冶浪人達は・・・。

ご存知の『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』では本蔵は仇討の一因を作った立場なので、九段目では主役を張るもののメインストーリーからは外されています。その本蔵にスポットを当てたのがこの『増補・・・』。本蔵の話を増やし補ったわけです。


お使いに来たばっかりに

実際の元禄の赤穂事件で、本蔵に当るのは梶川与惣兵衛頼照(かじかわよそべえよりてる)です。彼は700石取りの旗本、すなわち将軍にお目見えできる地位であり、江戸城本丸を守護したり、大奥の庶務を担当していたといいます。
浅野内匠頭(たくみのかみ)が吉良上野介(きらこうずけのすけ)に刃傷に及んだ元禄14年3月14日は将軍が天皇からの使い、勅使(ちょくし)をもてなす日でした。当日、梶川は将軍の御台所の贈物を届けるよう、お使いを仰せつかって、現場(江戸城本丸 松之大廊下)に遭遇。

刃傷事件ドキュメント

彼は事件を日記風にまとめ、残していて「梶川氏筆記」あるいは「梶川氏日記」といわれます。それによると「誰かが吉良殿の後ろから『この間の遺恨覚えたるか』と声をかけ、切りつけた。吉良殿は驚いて振り向いたところをまた切りつけられ、私の方へ逃げようとして、さらに二太刀ほど切られ・・・」という顛末だったよう。ただ吉良を治療した医師、栗崎道有(どうゆう)の日記では、まず眉間を切られ、それで背を向けた拍子に背中を切られたのでは・・・、としているといいます。
松之大廊下模型(江戸東京博物館所蔵)
 

一転、非難されて
梶川は当時50歳台のなかばではありましたが、大力だったので、35歳の内匠頭を取り押さえることができ、その功により、500石加増されたという記録もあるそうです。
しかし後に、世間は浅野を贔屓(ひいき)し、梶川は非難されるはめになりました。赤穂浪士が討入りする時に読み上げた「口上書」にも、「右、喧嘩(けんか)の節、ご同席におん押し留めのお方これあり、上野介討ち留め申さず・・」とあります。“ おん押し留めのお方 ”とはもちろん梶川です。
複雑な胸のうち

後年の梶川の日記には「内匠頭の心中を察すれば、さぞ無念であったろう。とはいえ何分にも不慮の急変ゆえ、とっさに抱き止めていた。内匠頭には気の毒ながら、公儀(こうぎ、幕府)に対しては当然こうあるべき・・・」と複雑な胸中が記されています。江戸城内で刃傷があって「ただ見ていた」では梶川も許されなかったのです。
 
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