くまどりん イヤホン解説余話
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「一條大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)」 歌舞伎座 昼の部

清盛への憎しみ
『一條・・・』は平家全盛の世にあって、源氏を再興せんと苦心する人々の姿が描かれます。さて、この演し物で活躍する一條大蔵卿とその妻、常盤御前はどのような境遇・心境にあったのでしょうか?
― 一条長成
この演し物の主人公、一條大蔵卿は歴史上の一条長成(いちじょうながなり)のこと。生没年は不明ですが、藤原氏の流れを汲み、はじめ二条天皇に、同天皇の死去(1165)後に後白河院に院司(いんし、いんのつかさ:上皇の直属機関 院庁の職員)、四位別当(院司の最高責任者)として仕えています。
保元3年(1158)に父の忠能が65歳で死去。

応保元年(1161)4月に行われた二条天皇とその近臣・文人達が漢詩を作り優劣を競った「御書所作文(ごしょどころさくもん)」に「大蔵卿長成朝臣」として列座したと記録が残っています。

保元の乱(1156)、平治の乱(1159)で平清盛が力を得、長成が仕える天皇が力を失っていったので、長成はこの演し物で見られるように、平氏をよく思っていなかったことでしょう。

一條大蔵卿は強大な平氏の権勢の世では本心を隠し、吉岡鬼次郎を介して、義子、義経に友切丸とともに希望を託したのでしょう。
― 常盤御前

常盤御前(ときわごぜん)は近衛天皇の中宮九条院(藤原呈子)の雑仕女で、後に源義朝(みなもとのよしとも)の妾(側室)となり、今若、乙若、そして牛若(後の源義経)を産みました。夫、義朝は平治の乱で平清盛と戦い、敗死します。
室町時代に成立した『義経記』では、「常盤が清盛の妾になることを条件に子供達が助命されることとなった」とあります。しかし、鎌倉時代に成立した『平治物語』では、「常盤と清盛が男女の関係となり一女をもうけた」という内容は記されていますが、常盤が清盛の意に従う事と子供達の助命の因果関係は記されていません。
常盤は後に清盛から離れ、一条長成に嫁ぎます。

この演し物で常盤御前が平清盛を夫、義朝の仇として楊弓の的にするほど憎んでいるとされているのは『義経記』の影響なのでしょう。
したたかに生きる
このように長成と常盤は生きにくい世をしたたかに生き抜いています。これはいつの時代にも大なり小なり通じるので、この演し物は共感され、人気があるのでしょう。

常盤御前・「賢女烈婦傳」歌川国芳 筆
 
 
文楽「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」 国立小劇場

時代背景
『一谷嫩軍記』では平安時代末期に起こった源氏と平氏の戦いのうち、一ノ谷の戦いにまつわる逸話を基にしたお芝居。まずはその時代背景を見てみましょう。
平氏の頭領 平清盛は娘を天皇に嫁がせ、その子が天皇に即位することで、天皇の祖父として権力を持ち、日宋貿易で富も蓄えた平氏一門はやがて朝廷の高位高官の多くを占めるようになります。後白河法皇を初めとする院政勢力はこれに反感を持つようになり、治承元年(1177)には鹿ケ谷の陰謀(藤原成親、僧 俊寛らによる平家討伐計画)が起こります。同3年には平氏の中では最も後白河法皇に信頼を得ていた平重盛(清盛の長男)が亡くなり、翌、治承4年(1180)に後白河法皇の三男 以仁王は源頼政の勧めに従い、平氏追討令を全国の源氏に発し、源頼朝や木曽義仲が挙兵。同5年(1181)平清盛が病没し、清盛の三男 宗盛が平氏の頭領となりますが、全国各地で起こる反乱に対処できず、寿永2年(1183)木曽義仲に敗れ、平氏は都落ち。その翌年 一ノ谷の戦いで源範頼、義経に敗れ、平氏の没落は決定的になるのです。
大出世した政治家 平時忠
『一谷嫩軍記』初段 堀川御所の段では、源義経が堀川御所で平家追討の軍議をしている所に義経の妻 卿の君の父である平時忠が訪ねてきます。安徳天皇を連れて都落ちした平家が持ち去った物のうち、時忠は取り戻した神璽と八咫(やた)の鏡(三種の神器(天皇家が代々継承し、その正当性を示す三つの品)の一つ)と平家の陣を記した絵図を義経に渡し、義経を喜ばせます。
平時忠とは実際はどのような人物だったのでしょう。桓武平氏(桓武天皇の子孫)高棟流(実務官人の家系)で、平時信の子として大治5年(1130)に生まれ。姉 時子は清盛の妻です。久安2年(1146)非蔵人、翌年 天皇の側近である六位蔵人(ろくいのくろうど)になります。平治の乱で源義朝を破り、清盛の発言権が強まった永暦元年(1160)、時忠は検非違使(けびいし:都の警察業務、のち訴訟・裁判も扱った)に抜擢され、その下で働きますが、二条天皇呪詛に加わったとして解任され、流罪。二条天皇崩御(1165)後、都に呼び戻されます。後白河上皇に嫁ぎ、高倉天皇を産んだ妹 建春門院(平滋子)の側近として取り立てられて出世。承安4年(1174)頃には平氏の栄華を讃えて「一門にあらざらん者はみな人非人なるべし」(現代語訳すると「平家にあらずんば人にあらず」)と発言したとされています。
建春門院の没(1176)後は高倉天皇の近臣として政治的地位を築きました。清盛の娘 徳子が高倉天皇に嫁ぎ、治承2年(1178)に男子(安徳天皇)を産むと、時忠の妻 藤原領子はその乳母になります。高倉上皇は治承5年(1181)に崩御し、その2年後、平氏は安徳天皇を連れて都落ち。時忠もこれに付き従いました。
一ノ谷の戦いの後、後白河法皇が神器の返還を求めて派遣した使者の顔面に時忠が焼印を押して追い返したという逸話が『平家物語』にあります。
また、壇ノ浦の戦いで捕虜として都に連行された時忠は八咫の鏡を守った功績により減刑を願い、娘 蕨姫を源義経の側室として嫁がせることで庇護を得ようとしました。「堀川御所の段」はこの2つの逸話を組み合わせ、その時を前にずらしたのです。

時忠は元暦2年(1185)、配流先の能登国に赴き、同地で4年後に没します。

時忠は敵役?
さて、再び『一谷嫩軍記』初段 堀川御所の段のお話に戻ります。時忠が神璽と八咫の鏡、平家の陣の絵図を渡し、義経を喜ばせている所に、藤原俊成の使者として、俊成の娘 菊の前が短冊を持って、やってきます。俊成は勅撰和歌集である『千載和歌集』に載せる歌を選ぶ役。ある旅人が「この歌を載せてほしい」と持参し、俊成はそれを優れた歌だとは思うが、加えてよいか分からず、義経に伺いを立てたのです。それは実は菊の前の恋人 薩摩守 平忠度が詠んだ歌。朝敵となった平家の忠度が詠んだ歌であっては勅撰和歌集に載せることはできないので、義経はそれを忠度の作と知りつつも、知らぬふりをして、その歌を賛美し、一旦は「載せて問題無い」とします。しかし、平時忠が「それは忠度の作なので、載せては俊成の落ち度となる」と口を挟むので、義経は「平家の縁者の句と疑いが上がった句を載せるのは難しいが、思うところがあるので短冊を一旦預かり、ともかくはからう。」と俊成に伝えるようにと、風流を解する返答を菊の前にします。

『一谷嫩軍記』の作者は平敦盛、平忠度らの風流に共感し、彼らが戦で滅びていくことに哀れを感じているようです。忠度と対照させるために、あるいは「平家にあらずんば人にあらず」と言ったことなどから、時忠を無風流で権力欲旺盛な、ある面では敵役として描いたのでしょう。
歌人 平忠度(たいらのただのり)
さて、平忠度はどのような人物だったのでしょう。天養元年(1144)生まれ、平清盛の弟。熊野で生まれ育ち、妻は熊野別当湛快の娘。治承4年(1180)正四位下、薩摩守。和歌の師匠は藤原俊成。
『平家物語』巻第九「忠度最期」の内容は以下のようなもの:百騎ほどに取り囲まれ落ち延びていく武者(薩摩守忠度)を源氏方の岡辺六野太が見つけ、名乗るように求めると、その武者は「味方だ」と答えたものの、六野太は「お歯黒をしているので平家の公達に違いない」と見抜きます。すると、武者は反撃、しかし六野太の家来が駆けつけて、武者の右腕を切り落とします。武者は

覚悟し、念仏を唱え、六野太は武者の首を打ち落とします。箙に結び付けられていたふみに「忠度」と記し、歌が一首詠まれていました。「薩摩守忠度を六野太が討った。」と名乗ると、武芸にも歌道にも秀でた忠度の死を敵味方とも涙を流して惜しんだ。
『一谷嫩軍記』二段目「林住家の段」では、忠度は朝敵の自分と縁があったとなると歌の師匠 俊成卿に迷惑が掛かるということで、俊成の娘である恋人 菊の前と縁を切ろうとします。義経の使いとして岡部六弥太がやって来て、忠度が詠んだ歌が「読人知れず」として『千載集』に載ることになったと忠度に伝えると、忠度は和歌の誉れを残すという本望が叶うことを喜び、戦場での再会を誓う。
というように忠度の歌への思いがより重視されています。ちなみに『平家物語』で忠度の箙に結び付けられていたふみに記されていた歌は

行(ゆき)くれて木(こ)の下かげをやどとせば花やこよいひのあるじならまし

(訳)旅の道中、日が暮れて、桜の木の下を今夜の宿とするならば、桜の花が主人としてもてなしてくれるだろう。

であり、『千載和歌集』に載った下記の歌とは違います。

さざ浪や 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山ざくらかな

(訳)さざなみの寄せる志賀の都は荒れ果ててしまったが、長等山の桜だけは昔と同じように咲いていることだ。
月岡芳年画『英雄三十六歌撰』
の内 「平忠度」 
 
 
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