くまどりん イヤホン解説余話
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「三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)」 歌舞伎座

節分の夜に
このお芝居は「お嬢吉三」、「和尚(おしょう)吉三」、「お坊吉三」という、いずれも吉三と名乗る三人の悪人を主人公に、意外な人間関係と因縁がからむ数奇なお話が展開します。今回上演される「大川端庚申(こうしん)塚の場」はその三人が節分の夜に出会い、義兄弟の契りを結ぶくだりで、なんと言ってもお嬢吉三の名セリフで知られています。
幸を願って
「節分」は立春の前の日(本来は四季の変わり目にそれぞれあった)ですが、旧暦が使われていた江戸時代以前は、立春は元日の前後に当たりました。すなわち春の始まりを年の始まりとしていたわけで、今も年始に「新春」とか「初春」というのはそのためです。
立春前日の節分には、古くから、邪気を除いて幸せな春を迎えようと、「豆まき」をしたり、柊(ひいらぎ)の枝にイワシの頭を刺した「柊鰯」を戸口に飾ったりしてきました。今は「恵方巻(大阪の船場が発祥という縁起物の海苔巻)」を食べる人も多く、最近は恵方ロールケーキというのも出現したんだとか。

歌川豊国画『今様押絵鏡』お嬢

厄を払う商売
江戸から明治の中頃までは、大晦日や節分に「厄払い(やくはらい)」といって、災難や病気、いわゆる「厄」を、唱え事をして払う商売がありました。彼らが「おん厄払いましょう」と呼ばわりながら街を廻るのが節分の風物詩だったらしく、家々では豆まきが終わると厄払いを呼び込んで厄を払ってもらい、十二文(500円弱)ほどのお金とめいめいの歳の数ぶん、豆を包んで渡したといいます。
長寿を並べて
その厄払いの唱え事は「あァら めでたいな、めでたいな。今晩今宵のご祝儀に、めでたき事にて払おうなら、蓬莱山(ほうらいさん)に舞い遊ぶ、鶴は千年、亀は万年。東方朔(とうぼうさく)は八千歳、浦島太郎は三千歳、三浦の大助(おおすけ)百六つ、この三長年(さんちょうねん)が集まりぃ、酒盛りいたす折からに、悪魔外道(げどう)が飛んで出(い)で、妨げなさんとするところ、この厄払いがひっ捕え、西の海とは思えども、東の川へさァらり、さらり」という七五調(7音、5音の言葉を連ねた調子。和歌、俳句、川柳などもそう)の文句です。

柊鰯:鬼は柊の葉のトゲと鰯のニオイが大嫌い

 

川へさらりと
なかの難しい言葉を説明しますと、「蓬莱山」=海にそびえ、仙人がいて不老不死の薬があるとされる中国の伝説の山。「東方朔」=女仙人、西王母(せいおうぼ)の不死身になれる桃を盗み食いし、死ななかったという中国の人。「三浦の大助」=歌舞伎に出てくる106歳の人物。「外道」=邪神で、全文は、要するに、長寿の妨げ(厄)を捕え、川へさらりと流して差し上げましょう、というのです。
厄払いの声がアクセント
さてお芝居で、女装の盗人、お嬢吉三は夜鷹(よたか、下級娼婦)のおとせから百両を奪い、おとせはその拍子に大川(隅田川)へドボン。やがてお嬢が「月も朧(おぼろ)に白魚(しらうお)の…」と有名なセリフを繰り出すと、途中で厄払いの「おん厄、払いましょうー。厄落とし」の声が聞こえます。
心地よい七五調
それを受けてお嬢は「ほんに今宵は節分か。西の海より川の中、落ちた夜鷹は厄落とし、豆だくさんに一文の銭と違った金包み、こいつァ春から縁起がいいわへ」と続けます。“ 豆だくさんに一文の銭 ”とは「豆のようにじゃらじゃらある小銭」ということ。厄払いの文句をもじり、節分に縁ある「豆」も取り込んだセリフで、夜鷹が川へ落ちて厄が払われ、大枚百両の運が転がり込んだ、とお嬢はご満悦です。まぁ、考えてみますと、盗人が自画自賛しているのですから、けしからん話ではあるのですが、なぜか、聞いている私たちもいい気分になってしまいます。
なおこのセリフや弁天小僧が言う「知らざァ言って、聞かせやしょう…」などは厄払いの文句と同じく、耳に心地良い七五調です。そこからこうした七五調の名セリフは「厄払い」とも呼ばれます。

 
「絵本太功記(えほんたいこうき)」 国立小劇場 文楽公演

13日間ドキュメント
太閤・豊臣秀吉の伝記「太閤記」におもしろいエピソードを加え、さし絵(イラスト)もそえて大衆向けに出版されたのが「絵本太閤記」。さらにそれを劇化したのがこの『絵本太功記』です。明智光秀が主君の織田信長を討ってから、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に追いつめられ、滅びるまでの13日間を、日を追って、ドキュメンタリーのようにえがいています。
仮名で登場
ただお芝居は、タイトルを「太閤」ではなく『太功』にし、秀吉をはじめ、織田信長、明智光秀たちも実名では出てきません。今の日本のメディアで「A少年」などと報じるのは人権を考えてのことですが、こちらはそうではなく、次の理由からです。
禁じられたノンフィクション 
江戸幕府は、歴史を、特に徳川家に関連した出来事をそのままお芝居にされると、それを観た人々が幕府の政治を批判しかねないと恐れ、ノンフィクションドラマを禁じていたのです。そこでお芝居の作者は、時代の設定を変えたり、登場人物に別の名前をつけたりして、幕府の目をごまかしました。
忠臣蔵は室町時代
江戸時代に起きた「赤穂四十七士の討入」をお芝居にした『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』が設定を室町時代にし、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)を塩谷判官(えんやはんがん)、吉良上野介(きらこうずけのすけ)を高師直(こうのもろのお)としているのが代表的な例です。

このお芝居も、羽柴秀吉を真柴久吉に、織田信長 → 尾田春長、明智光秀 → 武智光秀と微妙に変えて「歴史の人物とは違いますよ」と幕府にアピールしているのです。

人々のために
さて今回上演される『夕顔棚、尼ヶ崎の段』は10日目の出来事、お芝居の十段目です。
この段で、光秀は「春長(=信長)が、自分の忠告を聞かず、神社や寺を壊し、行いがどんどんひどくなるので、人々のためを思って、彼を討った」と語ります。主君を滅ぼすことは「忠義に反する悪」とされていた当時でも、作者は彼を悪人と決めつけてはいませんし、それは江戸時代の人々が思いえがいた光秀の姿だったのかもしれません。
罰が当たって

ただ幕府の手前、「忠義」をまったく否定することもできなかったのでしょう。この場で、光秀が障子(しょうじ)のむこうに敵の久吉がいると思って竹ヤリで突くと、それは自分の母だった、という悲劇が起きるのは「忠義に背いた光秀が受けた罰」ということにもされているのです。
明智光秀の首塚(京都市東山区梅宮町)
 
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