くまどりん イヤホン解説余話
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「祇園祭礼信仰記(ぎおんさいれいしんこうき)」 歌舞伎座

実物の金閣
金閣寺(正式名は鹿苑寺(ろくおんじ)金閣)は京都でもとりわけ訪れる人が多いところですが、室町幕府三代将軍、足利義満(あしかがよしみつ)が住まい、政治をとる場所として1397年につくった山荘の敷地に建てられた建物の一つです。この山荘は北山第(きたやまてい)または北山殿(きたやまどの)と呼ばれましたが、義満の死後、金閣以外は解体されました。
金閣は三層式で、第一層は神殿造、第二層は書院造、第三層は禅宗様と各層で建築様式が異なるのは義満が貴族社会、武家社会、仏教界すべての頂点に立つことを示したものだとも言われます。義満は金(きん)が好きだったそうで、第二層と三層の外面には金箔が施され、莫大な建築費をかけることで、権力の大きさを世に見せ付けたのです。
金閣は第一層に釈迦如来(もとは阿弥陀如来)、二層に観音菩薩を祀り、三層に釈迦の遺骨を納めるお堂として用いられたため、舎利殿(しゃりでん。舎利は「釈迦のお骨」を意味する)とも呼ばれています。孫の義政が東山山荘を建てた頃に、それが銀閣といわれ、北山第が金閣といわれるようになりました。
第二層内部は床も壁も漆で塗り固められた漆黒の世界で、四天王像と観音像が置かれています。三層内部は天井・壁ともに金箔が貼り詰められた黄金の世界です。
戦国時代以降、多くの寺院が焼き討ちにあったり、戦火で焼失したりしましたが、金閣は長いこと難を免れ、このお芝居ができた時にも存在しました。昭和25年(1950)に金閣の美に嫉妬した青年が放火して全焼し、この事件を題材に三島由紀夫は小説「金閣寺」を書きました。現在の金閣は焼失5年後に再建され、昭和61〜62年(1986〜87)に修復されたものです。

初演の頃
『祇園…』は宝暦7年(1757)に人形浄瑠璃で初演(このときの題名は「祇園祭礼信長記」)され、金閣三重のセリ上げセリ下げ大道具の工夫や一部の戯文が大当たりで、三年越しで上演が続き、後に歌舞伎でも上演されました。現物同様豪華な、舞台の金閣が話題になり、人気だったのでしょう。金閣を一般の人が拝観できるようになったのは明治27年(1894)からなので、江戸時代の観客が舞台から受けた驚きはさぞ大きかったことでしょう。
このお芝居では第13代将軍、足利義輝を暗殺した松永大膳(久秀)が金閣を占拠しています。久秀は歴史上は金閣と関わりがなかったようで、織田信長に反旗を翻し、信貴山城に立てこもったという史実を翻案したものと思われます。他にも、関連する史実や虚構が作品の中にうまく盛り込まれています。

松永大膳が井の中に投げ入れた碁笥(ごけ。碁石入れ)を、手を濡らさずに取るために、此下東吉(このしたとうきち。歴史上の木下藤吉郎=後の豊臣秀吉 にあたる)は金閣の金の筒樋を取り外して、滝の水を井に導きます。金閣を正面から見るとあまりわからないのですが、裏側から見ると(画像参照)雨どいが2本飛び出ているのが良くわかります。作者はこれをうまく利用しようと考えたのでしょう。

金閣寺の本堂(舎利殿裏側)山中紘治氏撮影
 
1759年に伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)は鹿苑寺大書院の障壁画を完成させています(現在は相国寺境内の承天閣美術館で保存)。そのため、『祇園…』が初演された頃は、鹿苑寺(金閣)は注目されていたのかもしれません。

相国寺の雲龍
義満が、金閣以前に建てた相国寺(しょうこくじ)も、金閣と同じく『祇園…』に深く関連づけられています。
お芝居の中で雪姫の祖父とされる雪舟は、「幼い頃、生家近くの宝福寺に入ったものの、絵ばかり好み経を読まなかったため、仏堂の柱に縛り付けられたが、その時、涙で見事な鼠を描いた」という逸話でよく知られています。その雪舟は後にこの相国寺で修行しました。
龍は仏法を守護する空想上の動物であるため、禅宗の法堂(はっとう)の天井にはよく龍が描かれますが、相国寺法堂には1605年に豊臣秀頼によって再建された時に、狩野光信(1565〜1608)が描いたとされる「蟠龍図(ばんりゅうず)」が今なお色鮮やかに残っています。このお芝居で金閣寺の究竟頂(くっきょうちょう。第三層)に閉じ込められた慶寿院が、その天井の楠板の裏に雲龍を狩野直信か雪姫に描かせるよう望むのは、この絵のことを転用したものと思われます。
皆様も作品の意外なからくりを発見されると、一層お楽しみになれることと思います。

 
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