くまどりん イヤホン解説余話
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歌舞伎 「東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)」 国立大劇場

幽霊不信の現代人も
文政8年(1825)6月、中村座の上の櫓(やぐら)に引っかかった一枚の凧。その絵は何と、無気味な女の生首・・・この宣伝効果もあって、翌月初演の『四谷怪談』は大当り。
生首の絵とは見世物小屋のようですが、芝居は化け物芝居ではありません。緻密に見事に描写された人物の個性や江戸の風俗。また人間の欲や悪業の暗闇の深さ、虐待され裏切られた女の恨みの深さ。そこから来る恐怖は、お化け屋敷の幽霊とは全く違います。そこが幽霊を信じない現代人も、恐怖と共感を覚える、不朽の名作たる所以でしょう。
浅野=塩冶
この作品は、忠臣蔵の裏物語です。赤穂藩主、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、吉良上野介(きらこうずけのすけ)に切りつけて切腹。赤穂浪士達が、主君の仇、吉良を討ったあの事件。実名での上演は許されず、浅野と吉良を「太平記」でも知られる、塩冶判官(えんやはんがん)と高師直(こうのもろのう)に置きかえました。
赤穂と言えば塩。赤穂の塩饅頭は美味なもので、私も大好きです。それはともかく、名前に塩のつく塩冶判官という悲劇的武将がいた。赤穂の浅野にうってつけでもあり、塩冶の名を拝借したわけです。
悪の魅力
さて幸四郎演ずる民谷伊右衛門(たみやいえもん)は、塩冶浪人(つまり赤穂浪人)です。悪人で、お家の公金を盗み、惚れたお岩への結納金に充てた。それを知った舅(お岩の父)を、浅草裏田圃で惨殺。亡君塩冶判官の仇討に加わる気はさらさらなく、それどころか逆に、仇の高師直に仕官するつもりです。

高家の家老、伊藤喜兵衛に取り入って、その孫娘を新しい妻に迎えようと、邪魔なお岩を虐待。そういうひどい奴ですが、色悪のニヒルな浪人で、もう一人の悪党、直助(彌十郎)と共に、悪の魅力をたっぷり見せてくれます。

男の仇討、女の復讐
一方何とも気の毒な女性がお岩さん(染五郎)。伊藤家が親切ごかしにくれた薬が、毒薬。顔が崩れ、髪も抜け落ち凄まじい姿に・・・これが「髪梳き」の名場面です。
絶命したお岩の怨霊は、伊藤一家を取り殺す。伊右衛門も死霊に苦しめられた末、同じ塩冶浪人の佐藤与茂七(よもしち、染五郎)に討たれます。実在の四十七士の一人で、十八歳だった矢頭右衛門七(やとうえもしち)をもじって佐藤与茂七です。
仕掛けも見所
奇抜で意外性に満ちたストーリーや、怪奇、残酷シーンの物凄さは、奇才鶴屋南北(つるやなんぼく)ならではのもの。見所は隠亡堀のだんまりや、幽霊の出没する巧みな仕掛けの、戸板返し、提灯抜け、仏壇返しなど。
江戸世話物の傑作
聞き所は、要所の会話の小気味よさ。伊右衛門の「はて恐ろしき執念じゃなぁ」や、図太い悪党らしさを表す「首が飛んでも動いてみせるわ」という名セリフ。

また地獄宿(私娼窟)など、江戸の下層社会がリアルに生き生きと描かれて、実に面白いものです。文学性の高さでは、江戸世話歌舞伎の最高傑作と申せましょう。


「神谷伊右エ門 於岩のぼうこん」歌川国芳画
 
文楽 「三十三間堂棟由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)」 国立小劇場

この演し物は『祇園女御九重錦(ぎおんにょうごここのえにしき)』として、宝暦10年(1760)に初演されました。当時、浄土真宗の宗祖 親鸞聖人(しんらんしょうにん。1173〜1262)の500回忌を迎え、「親鸞記もの」が流行していましたが、東本願寺(ひがしほんがんじ。浄土真宗の二派のうち、内部対立を煽るために江戸幕府が支援した側。浄土真宗本願寺派)の訴えに応じ、江戸幕府は親鸞伝を扱う興行・出版を一切禁じました。『祇園…』もそうした点に配慮し、親鸞聖人の弟子 平太郎と後白河上皇が平清盛に資材の協力を得て、建てさせた三十三間堂の棟木の由来のことを、それ以前の白河法皇の時代に置き換えて描いています。

文政4年(1821)に、柳の精 お柳が子と別れる悲しみを扱った三段目のみが『卅三間堂棟由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)』の題で上演され、その後はほとんどその形式で演じられています。

三十三間堂
京都東山にある三十三間堂は、堂内に1001体の仏堂が並ぶ壮麗さが他に類を見ないもので、天台宗の寺院 妙法院の一部です。
このお堂が建てられたいきさつについては、以下のようなお話が伝えられています:
後白河上皇は長年頭痛に悩まされていました。熊野詣の折に出たお告げに従い、洛陽因幡堂(らくよういなばどう。現・京都市下京区にある真言宗のお寺)に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ「上皇の前世は熊野の蓮華坊(れんげぼう)という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏(どくろ)が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げました。上皇が岩田川(現在の富田川(とんだがわ))を調べさせるとお告げの通りだったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を三十三間堂の梁(棟木)に使ったところ、上皇の頭痛は治った、というものです。

三十三間堂、京都市

『三十三間堂…』はこの言い伝えが脚色されたものです。白河法皇の頭痛の基となっていた柳の木(柳の精 お柳)が、三十三間堂建立のために、子と引き離されて都へ曳かれていくことになりました。その時、柳の木は我が子みどり丸との別れを悲しんで動かなくなりますが、みどり丸が「木遣り唄」を唄うと動き始めるというお話です。

木遣り唄
さて、前置きが長くなりましたが、ここから「木遣り唄」とはどのようなものかを考えてみます。
木遣りとは元々、木を「遣る」、すなわち「前に進ませる」ことで、一人や二人では動かすことができない大木を、大勢の人が力


を合わせて運ぶ時に唄われるようになったものと考えられます。大勢の人足が音頭取りの音頭に合わせて、綱を引っ張り、木を運んでいきます。木遣り音頭は隅々まで聞こえるように、高くて良く通る声で唄われます。この演し物に出てくる木遣り唄はこの元々の使われ方をしています。長野県諏訪大社の由緒あるお祭り「御柱祭(おんばしらさい)」では、「山出し」「里曳き」など山から伐り出したモミの大木を神社へ曳いていく時に「木遣り音頭」が唄われていて、これも元々の意味の「木遣り」と言えます。

「木遣り」はその後、「土搗き・石搗き(基礎の地盤を突き固める)」「棟上げ(棟木を持ち上げて組み立てる)」「舟卸し(新造した舟を進水させる)」「漁猟(獲物や舟を浜辺に曳き上げる)」などその他の力仕事の時にも唄われるようになりました。

祝儀木遣り唄
さて「木遣り」というと、今では「祭礼や儀式の際に唄われるもの」というイメージをお持ちの方も多いかと思います。これはなぜなのでしょうか?
江戸時代になって治安がよくなり、庶民も寺社詣りという口実で、旅ができるようになりました。中でも伊勢神宮へのお詣りは、「伊勢に行きたい、伊勢路が見たい、せめて一生に一度でも♪」と伊勢音頭に唄われているように、大流行しました。そして、お伊勢参りをした人たちによって、伊勢音頭が全国へ広まり、「ヤートコセー」「ヨーイヤナー」など、その囃し言葉が木遣り唄へ取り入れられていき、木遣り唄は祭礼や宴会・儀式の時など、力仕事以外の時にも唄われるようになりました。これを「祝儀木遣り唄」と言います。

江戸の火消(鳶職)の間で唄われ始めた「江戸木遣り唄」は、この「祝儀木遣り唄」の代表的なもので、出初式(でぞめしき。消防関係者の仕事始めの行事)で梯子乗りを披露する際などに高らかに唄われました。歌舞伎舞踊『お祭り』などに、そうした様子が見られます。
歌川広重
「東京八代洲町警視庁火消出初梯子乗之図」
(国立国会図書館所蔵)
 
 
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