くまどりん イヤホン解説余話
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「京人形(きょうにんぎょう)」 歌舞伎座 第二部

『京人形』は正式には『銘作左小刀(めいさくひだりこがたな)』というお芝居の一場面で、名匠、左甚五郎を主人公にした舞踊劇です。
お話は甚五郎が廓(くるわ)で見染めた美しい遊女を忘れられず、その姿を彫った人形を相手に盃のやり取りをしていると、不思議や人形が動きだし、女の魂とされる鏡を懐に入れてやるとしとやかに女らしく、鏡が落ちると無骨に荒々しく踊るのというもの。左甚五郎はもの凄い名人だったという伝説がベースにされています。
京人形の可憐な踊りから一転、後半は甚五郎と捕手の立ち廻りとなり、右手を傷つけられた甚五郎が左手だけで大工道具を武器に鮮やかに立ち廻るのが見どころです。


日光の東照宮、陽明門にある「眠り猫」や東京、上野の東照宮の門に彫られた「昇り龍、降り龍」をはじめ、左甚五郎が彫ったとされる作品は全国各地にあります。そしてそれらには「眠り猫」は初めから眠っていたのではなく、陽明門の完成を祝う宴会の残り物を食べたので、甚五郎が一刀で眠らせたとか、上野の龍は夜な夜な水を呑みに不忍の池へ通ったなどという伝説がくっ付いています。またその名の「左」についても右腕が無かったから、あるいは左利きだったから、などさまざまな説があるようです。そして彼の名は織田信長の時代から江戸後期まで出てくるといいます。そうなると彼はおおよそ250年間活躍したことになり、それはあり得ませんから、「左甚五郎」は特定の人物ではなく、当時、作者がわからない優れた作品をすでにブランド化していた左甚五郎の作ということにして、一種の箔を付けようとしたのではないかといわれます。

また左甚五郎の「左」は「飛騨(ひだ)の」が転じた、すなわち左甚五郎は「飛騨の匠」だったという説も有力です。

上野東照宮 昇り龍


飛騨はご承知のように岐阜県山間部の地名で、古くから良質な木材を産し、製材や加工も盛んだったといいます。そもそも飛騨の地名は、切り出した木を負った馬が飛ぶがごとくに山を駆けくだる様子に驚いてつけられたという記述が「和漢三才図会」にあり、それは天智天皇が大津の宮を造営した頃(667年)だといいます。また大工さんが墨壺(すみつぼ)という道具で、墨のついたタコ糸を弾いて木の表面に直線を引くのを、今もたまに眼にしますが、万葉集、巻十一には「かにかくに 物は思わず 飛騨びとの 打つ墨縄の ただ一道に(飛騨の匠が打つ墨縄のように一筋にあなたを思います)」という歌があり、当時から飛騨の人のそうした技はかなり知られていたと察せられます。
では、なぜ飛騨の人々とその技術が良く知られていたのでしょうか。

7世紀、わが国に律令制が敷かれると、民に租(そ、米)・庸(よう、労役かその代替品)・調(ちょう、絹や布)という税が課せられましたが、飛騨地方はその内、庸と調は免除され、代わりに毎年、1里四方の区域から10名、全域では100名ほどが都へ赴き、建築に従事することが義務づけられていたからのようです。これは平安時代末期まで続いたといい、もともと木材加工に長けていた彼らは都で宮殿や神社仏閣の造営という公共事業に携わる間に、さらに最新技術を身につけ、1年後には飛騨へ戻るわけですから、この地は大工さんの一大国になりました。そして技術に一段と優れた人々は、やがて「飛騨の匠(たくみ)」と呼ばれ、各地に赴いて国分寺や国分尼寺を造った。そして彼らの末裔も今に語り継がれる数々の名作を生み出したのだろう。だから左甚五郎はそうした飛騨の匠の総称ではないかというのです。
 
「五条橋(ごじょうばし)」 日生劇場 ニッセイ親子文楽

昔は皆知っていた
♪ 京の五条の橋の上 大の男の弁慶は 長いナギナタふりあげて 牛若めがけて切りかかる
これは明治44年(1911)に文部省が小学唱歌(小学生むけの歌)に定めた「牛若丸」の歌詞です。今は学校で教えないので、知らない方も多いでしょうが、50歳以上の皆さんはたいていご存知のはず。
千本目の夜に
歌の元になった五条橋の牛若丸(後の源義経)と弁慶の物語も、以前は、この歌と共によく知られていたようです。それは、刀を千本コレクションしようしている弁慶が、あと一本で達成するという夜に、五条橋を渡ってくる牛若丸から刀を奪おうとして、逆にやっつけられるお話。「義経記(ぎけいき)」という義経の伝記にあるエピソードをもとに、明治時代のおとぎ話作家、巌谷小波(いわやさざなみ)が書いた童話です。 
『五条橋』もこの伝説をもとにした人形による舞踊劇です。
兵法の力で
さてこのお話では、牛若丸は女の子と見違えるほどの美少年だったということです。そんな彼が大男の弁慶をやすやすと負かしてしまったのは、彼が鞍馬山で修行し、兵法(ひょうほう)を身につけていたからです。
企業戦士も
兵法とは中国の軍略=戦のテクニックのことで、その代表的な書物、かのナポレオンも学び、今の日本の企業戦士にも愛読者がいるという「孫子(そんし)」によると、「兵=戦」には、
@「兵は詭道(きどう)なり」− とにかく敵をだます。まともな方法ではだめ。
A「兵は拙速(せっそく)なるを聞くも、いまだ巧みの久しきを観ず」− 多少まずい方法でも短期決戦が良い。長期戦が成功したためしはない。
B「兵は勝ちを貴(たっと)びて、久しきを貴ばず」− 大切なのは勝つこと。延々と戦うのが目的ではない。
という三大ポイントがあるそうです。

牛若丸の先生は
牛若丸に兵法を教えたのは鞍馬山の天狗という話がありますが、もちろんこれはフィクションです。「義経記」によれば、それは兵法家の鬼一法眼(きいちほうげん)だったといわれ、『鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)』というお芝居でも、義経は鬼一の弟子ということになっています。
兵法家か陰陽師か

ただ彼は、実際は、もっと前の義経の祖父、源為義(ためよし)と同じ時代の人らしいので、この鬼一説も定かではありません。さらに鬼一は兵法家ではなく、安倍晴明(あべのせいめい)と同じ陰陽師(おんみょうじ、星占いや暦の専門家)であったという説もあるようです。
1995年発行の切手「牛若丸と弁慶」
 
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