飛騨はご承知のように岐阜県山間部の地名で、古くから良質な木材を産し、製材や加工も盛んだったといいます。そもそも飛騨の地名は、切り出した木を負った馬が飛ぶがごとくに山を駆けくだる様子に驚いてつけられたという記述が「和漢三才図会」にあり、それは天智天皇が大津の宮を造営した頃(667年)だといいます。また大工さんが墨壺(すみつぼ)という道具で、墨のついたタコ糸を弾いて木の表面に直線を引くのを、今もたまに眼にしますが、万葉集、巻十一には「かにかくに 物は思わず 飛騨びとの 打つ墨縄の ただ一道に(飛騨の匠が打つ墨縄のように一筋にあなたを思います)」という歌があり、当時から飛騨の人のそうした技はかなり知られていたと察せられます。
では、なぜ飛騨の人々とその技術が良く知られていたのでしょうか。
7世紀、わが国に律令制が敷かれると、民に租(そ、米)・庸(よう、労役かその代替品)・調(ちょう、絹や布)という税が課せられましたが、飛騨地方はその内、庸と調は免除され、代わりに毎年、1里四方の区域から10名、全域では100名ほどが都へ赴き、建築に従事することが義務づけられていたからのようです。これは平安時代末期まで続いたといい、もともと木材加工に長けていた彼らは都で宮殿や神社仏閣の造営という公共事業に携わる間に、さらに最新技術を身につけ、1年後には飛騨へ戻るわけですから、この地は大工さんの一大国になりました。そして技術に一段と優れた人々は、やがて「飛騨の匠(たくみ)」と呼ばれ、各地に赴いて国分寺や国分尼寺を造った。そして彼らの末裔も今に語り継がれる数々の名作を生み出したのだろう。だから左甚五郎はそうした飛騨の匠の総称ではないかというのです。 |