くまどりん イヤホン解説余話
Facebook Twitter
 
「廓文章(くるわぶんしょう)」 歌舞伎座

隔てられた場所
遊女商売をする「廓(くるわ)」は、元来の意味は、堀や塀で囲い、外と隔てた場所のことです。そもそも遊女商売などは、風紀上、好ましい存在ではなかったので、お上は遊廓を世間から隔てるようにしました。それゆえこうした場所を廓と呼ぶようになったようです。
公認以外〜他〜岡
江戸時代には、江戸の吉原、京の島原、大坂の新町が日本の三大遊廓とされました。これらはいずれも幕府公認で、他に伏見の撞木町、長崎の丸山など(舞踊、娘道成寺の詞にもでてきます)、公に許された廓は全国に20数ヵ所あったといいます。
それ以外の非公認の場は「岡場所」と呼ばれました。「それ以外」→「他」が転じて「岡・場所」になったとか。江戸では品川、内藤新宿、板橋、千住が有名でした。
京から大坂へ
この「廓文章」のヒロイン、夕霧太夫は大坂の新町に在籍した実在の遊女で、吉原の高尾、島原の吉野と並ぶ「三大遊女」の一人です。

夕霧は、はじめ、京、島原の扇屋にいましたが、扇屋が寛文12年(1672)に大坂の新町へ移る際、彼女も移籍しました。京の経済力が低下し、上方経済の中心が大坂へ移るとともに、京では夕霧のような最高級遊女と遊べる客が減ってしまったからです。繁華街の景気が経済に左右されるのは昔も今も同じですね。

アイドル並
夕霧は今のアイドル並の人気者だったようで、移籍は大変に話題になり、船で京から大坂へ下る川筋には見物人がつめかけたといいます。

大坂でもその人気は絶大で、移籍した6年後、22(27とも)歳の若さで亡くなると、アイドルの死を悼み、その年に早くも『夕霧名残の正月』という芝居が上演されたほどでした。
年忌ごとに
夕霧をあつかった「夕霧狂言」はその後も「夕霧一周忌」「夕霧三年忌」〜「夕霧十七年忌」などが立て続けに生まれました。上方歌
舞伎の名優で、夕霧と同時代を生きた初代坂田藤十郎は18本の夕霧狂言に出演し、夕霧の恋人、藤屋の若だんな、伊左衛門(こちらは架空の人物)を演じました。

決定版「廓文章」
藤十郎の色男が優美に、柔らかに遊女とのかけひき「傾城(けいせい)買い」を見せる舞台は、和事の名人芸に夕霧のはかない生涯が重なり、いずれも大評判を呼んだといいます。
『廓文章』は近松門左衛門が夕霧の三十五年忌に書いた「夕霧阿波鳴渡(ゆうぎりあわのなると)」を改作したもので、夕霧狂言の決定版といわれます。
吉田屋は昭和まで
夕霧の墓とされるものは生まれ故郷、京都の清涼寺のほかに、徳島、和歌山にもあるそうです。 写真は大阪の浄国寺にある夕霧の供養碑です。「廓文章」は新町の吉田屋が舞台で、お芝居にはそこの主人、喜左衛門が登場します。この碑は、その喜左衛門の十四代目が昭和2年の夕霧二百五十年忌に建てた、と碑を囲む石塀に刻まれています。

浄国寺に建つ夕霧の供養碑
大阪市天王寺区

 
「靭猿(うつぼざる)」 国立文楽劇場

狂言から
この『靭猿』は同じタイトルの狂言を文楽に移したものです。元の能、狂言は能舞台の松を描いた羽目板の前で演じられることから、能や狂言から採った演目は「松羽目物」と呼ばれます。他に「釣針」から移した『釣女』、「安宅(あたか)」から移した『勧進帳』などがあります。
猿皮がCOOL
靭(うつぼ)は空穂とも書き、矢を入れるための長い器のことで、その表面にはよく猿の毛皮が貼られました。「太平記」によると、室町時代初期に突飛な振る舞いから「バサラ大名」と呼ばれた佐々木道誉(どうよ)は一族、三百人に猿皮の靭と腰当を持たせたといいます。猿皮アイテムを身に着けるのは当時の伊達男の最先端ファッションだったのでしょう。

無心な芸に…

さてお話は、狂言にはよ〜く出てくる大名が、猿回しの男に、靭に貼る猿の皮を所望するのが発端です。猿回しは、大事な猿を殺すわけにはいかないと、当然、拒絶しますが、それならおまえを射殺すと脅され、やむなく承知します。ところがそうとも知らない猿は無心に芸を始め、それを見た大名は…。お後は実際の舞台でごらんのほどを。

インドでは馬の守護神
猿に芸をさせる猿回しはそもそも「猿曳き(さるひき)」といい、すでに奈良時代には、中国から日本に伝わっていたといいます。インドでは、古来、猿の頭上に馬の病が集まるとされ、猿は馬の守護神でした。猿と馬の組み合わせといえば、「西遊記」でおなじみの孫悟空は、天上界に仕えていた時、厩(うまや)の番人を命じられましたね。その流れからでしょうか、日本の猿曳きも、もとは厩を祈り清めるために、家々を回ったということです。
厄を取り“ 去る ”
また日本では“ 猿→さる→去る ”ということから、猿には災難を取り去る力があるとされ、猿回しは、おめでたい正月などに、厄払(やくはらい)も乞われて、門付(かどづけ、家々の門前で芸を披露し、祝儀をもらう)をしたわけです。
江戸の猿回しは…
文楽『近頃河原の達引(ちかごろかわらのたてひき)』の「堀川猿廻しの段」では、猿廻し与次郎が、二匹の猿を『曽根崎心中』の主人公、お初、徳兵衛に仕立て、寸劇を演じさせます。これを見ると、江戸時代の猿回しはこういうものだったかとわかります。

ちなみに海にいる獰猛(どうもう)な魚「ウツボ」は、長い形が靭に似ていることから、こう名付けられました。
熊の毛皮が貼られた靭
 


 
閉じる