隔てられた場所
遊女商売をする「廓(くるわ)」は、元来の意味は、堀や塀で囲い、外と隔てた場所のことです。そもそも遊女商売などは、風紀上、好ましい存在ではなかったので、お上は遊廓を世間から隔てるようにしました。それゆえこうした場所を廓と呼ぶようになったようです。
公認以外〜他〜岡
江戸時代には、江戸の吉原、京の島原、大坂の新町が日本の三大遊廓とされました。これらはいずれも幕府公認で、他に伏見の撞木町、長崎の丸山など(舞踊、娘道成寺の詞にもでてきます)、公に許された廓は全国に20数ヵ所あったといいます。
それ以外の非公認の場は「岡場所」と呼ばれました。「それ以外」→「他」が転じて「岡・場所」になったとか。江戸では品川、内藤新宿、板橋、千住が有名でした。
京から大坂へ
この「廓文章」のヒロイン、夕霧太夫は大坂の新町に在籍した実在の遊女で、吉原の高尾、島原の吉野と並ぶ「三大遊女」の一人です。
夕霧は、はじめ、京、島原の扇屋にいましたが、扇屋が寛文12年(1672)に大坂の新町へ移る際、彼女も移籍しました。京の経済力が低下し、上方経済の中心が大坂へ移るとともに、京では夕霧のような最高級遊女と遊べる客が減ってしまったからです。繁華街の景気が経済に左右されるのは昔も今も同じですね。
アイドル並
夕霧は今のアイドル並の人気者だったようで、移籍は大変に話題になり、船で京から大坂へ下る川筋には見物人がつめかけたといいます。
大坂でもその人気は絶大で、移籍した6年後、22(27とも)歳の若さで亡くなると、アイドルの死を悼み、その年に早くも『夕霧名残の正月』という芝居が上演されたほどでした。
年忌ごとに
夕霧をあつかった「夕霧狂言」はその後も「夕霧一周忌」「夕霧三年忌」〜「夕霧十七年忌」などが立て続けに生まれました。上方歌 |