くまどりん イヤホン解説余話
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「番町皿屋敷(ばんちょうさらやしき)」 歌舞伎座

ケンカが元で
青山播磨は旗本奴(やっこ)白柄(しらつか)組の一員で、町奴との抗争に明け暮れています。嫁を迎え、身を固めればおとなしくなろう、と播磨に縁談が持ち上がったことが、彼と腰元お菊、愛し合う二人の悲劇の発端となるのです。
ツッパリのルーツ?
旗本奴、町奴の「奴」とはそもそも武家の下っ端の家来です。
徳川幕府は、三代将軍家光の頃まで、幕府に権力を集中させて体制を強化しようと、様々な理由をつけて大名家を取り潰しました。その結果、職を失った奴の一部は江戸や京、大坂へ出て、他の家へ再就職。しかし戦国の世なら自分の力次第で出世もできように、うち続く太平にチャンスはなし。彼らはそのウップンを奇抜な格好や振る舞いで晴らすようになりました。
エリートながら
「旗本」は元来、戦場で御旗のもと、主君を守る親衛隊を意味します。江戸時代に入ると将軍直属の家臣の一部を指すようになりました。彼らは戦で功績をあげれば大名への道もひらけようというエリートの家系ですが、もう戦自体がないのです。
退屈男たち
そんなわけで旗本の仕事といえば将軍に従って儀式に出るくらいです。ストレスはたまり、退屈を持て余す。そうそう「旗本退屈男」なんていう映画もあったといいますね。
そんな旗本のうち、次第に前述の奴連中に似た気風を持つようになったのが「旗本奴」です。

直参を笠に
彼らはグルになり、将軍直参を笠に、街をのし歩き、町人イジメもしました。このお芝居で、播磨も属している白柄組は実在したといい、メンバーは刀の柄(握り)をはじめ、着物の裏、袴(はかま)など、身なりのところどころをチームカラーの白で統一。これは、今のそういうグループにも見られる傾向ですね。
一方の雄は長兵衛
やがて彼らに対抗すべく生まれたのが「町奴」です。
正保、慶安(3〜4代将軍)の頃には、町人の間に剣術や柔術が流行し、なかでも腕の立つ者から、いわゆる侠客が生まれました。町奴の主な顔ぶれはその侠客をはじめ、旗本奴の子分から独立した者、武家の供小姓(ともこしょう)をやめた者たちだといいます。歌舞伎でもおなじみの幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべえ、このお芝居には、彼の子分達が登場)は町奴の代表格でした。
傾き者 ⇔ 歌舞伎

このように、いろんなツッパリ奴がいたのですが、彼らは総じて、そのキャラクターから、奇をてらう者という意味の「傾(かぶ)き者」、あるいは「六法(ろっぽう)者」などとも呼ばれました。歌舞伎も「傾く」が語源だといわれるように、彼らと歌舞伎は互いに影響し合い、歌舞伎の歩く芸「六法(ろっぽう)」は彼らが肩肘(かたひじ)張って歩くさまをまねたという説もあります。

町奴の代表、幡随長兵衛:歌川国芳 画

 
「日吉丸稚桜(ひよしまるわかきのさくら)」 国立文楽劇場

敵味方の父娘
『日吉丸・・・』は日吉丸、後の木下藤吉(史実の藤吉郎、後の豊臣秀吉)の出生から「桶狭間(おけはざま)の戦」までの物語です。今回上演される『駒木山城中の段』では、美濃の斎藤方、尾張の小田(史実の織田)方、と敵味方に分かれた鍛冶屋五郎助、お政父娘の悲劇と加藤正清(史実の清正)が藤吉の家来に取り立てられるいきさつが描かれます。
尾張、美濃同盟
この段の基になっているのは、藤吉郎が、稲葉山に篭城する斎藤龍興(たつおき)を抜け道から攻略したという、織田信長の「美濃攻め」におけるエピソードです。
信長は、美濃の斎藤道三の娘、濃姫(のうひめ)と政略結婚し、同盟していました。道三が息子の義龍(よしたつ)と争ったとき、信長は道三に味方します。
遺言を口実に
この戦で道三は敗死し、勝った義龍もほどなく急死すると、道三の孫、龍興が14歳で美濃を治めることに。信長はこの機に乗じ、美濃を攻めます。その大義名分は道三の「美濃を譲る」という遺言でした。
駒木=小牧
さてこの段の舞台、「駒木山城」は史実の小牧山城のもじりです。
清洲(きよす)城を本拠にしていた信長は、美濃を攻めるにあたり、清洲からでは遠い、と濃尾平野のただなか、高さ90m弱のこんもりとした小牧山に城を築きました。頂上から四方が望め、戦略には格好のこの地へ移るよう、信長に勧めたのは藤吉郎だったといわれます。

一足早かった家康
城は、信長が美濃を収め、稲葉山城(岐阜城)へ移ると廃されましたが、信長が死に、藤吉郎VS織田信雄(信長の嫡男)+家康が後継を争う「小牧、長久手の戦」では、家康が、いち早く、小牧山に陣を置き、藤吉郎を悔しがらせたとか。
私財を投じて
現在、山頂には再建された小牧城が。これは、1967年に、名古屋の実業家が私財を投じて建て、翌年完成後、小牧市に寄贈したものです。今は「小牧市歴史館」として、同市の歴史資料を展示、公開。2007年3月にはリニューアルされたということです。
石垣造りの名人
城といえば、本作にも扱われている加藤清正は石垣造りの名人として知られ、肥後(熊本)を治め、熊本城を築くにあたり、よじ登ることができない「三日月石垣」を考案しました。

また後年、江戸城の改築工事にも参加。彼が造る石垣は完成が大幅に遅れましたが、改築後、大雨に見舞われると、他の大名が受け持った石垣が次々と崩れるなか、清正の石垣はビクともしなかったそうです。
1987年に上空から撮影された小牧山(愛知県小牧市)
国土画像情報・国土交通省
 
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