くまどりん イヤホン解説余話
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「実盛物語(さねもりものがたり)」 歌舞伎座 昼の部

運動会も歌合戦も
お芝居では笹竜胆(ささりんどう)の紋所がついた源氏の白旗が多くの人の手に渡り、前途危うい源氏一族を象徴します。その白旗に対し、このお芝居で源氏の胤(たね)を根絶やしにしようと躍起になる平家のシンボルは赤旗でした。
紅白に別れて競う姿は、今も、運動会や大晦日の歌合戦に受け継がれていますね。
白は清浄、赤は太陽?
さて「平家物語」などで広く知られるこの“ 源氏の白旗 ”、“ 平家の赤旗 ”の由来にはさまざまな説があります。「白」は神の清らかさを表し、源氏が八幡神を崇拝していたから、「赤」は太陽の色で、平家が、天照大神(あまてらすおおみかみ)を先祖とする天皇家の流れであるとアピールしたかったから、などなど。
白石先生もお手上げ
しかし実は、源平どちらも色の由来ははっきりしません。江戸時代の歴史家・政治家であった新井白石(あらいはくせき)も「本朝軍器考(ほんちょうぐんきこう)」という書物で「源氏の部族がみな白旗というわけではない」、また「平氏の赤旗のいわれが書かれたものを見たことがない」としています。『元禄忠臣蔵』で徳川綱豊卿に講義するほど博識な白石先生でさえ、その確証は得られなかったようです。

頼りは色
源氏の「笹竜胆」、平家の「揚羽蝶(あげはちょう)」の紋は鎌倉、室町期を経て定まったそうですから、源平合戦の頃は旗に紋はなく、色を頼りに敵味方を見分けたのでしょう。
余談ですが、日本で染料が使われたのは奈良時代からで、主に植物を原料としていたといいます。赤は茜(あかね)や蘇芳(すおう)、青は藍(あい)、黄色はウコンなどを使って染め、明治期に科学染料が入るまで、この用法は千年近く変わらなかったとか。
旗の力
旗は、平家物語の頃は、馬上で旗指物をかかげたのですが、時代が下るにつれ、巨大になりました。戦における旗はたいへんに神聖な物で、室町期には「旗奉行、旗大将」の職が侍大将に次ぐNo2ポストだったといいます。
また旗は士気を高め、敗走を踏みとどまらせる効力があり、旗を奪われる=負けを公表する屈辱とされました。
陰の主役
お芝居では、源氏の白旗を守らんと、源義賢(よしかた)や小万(こまん)が命をかけ、斉藤実盛(さねもり)は、駒王丸(こまおうまる、後の木曾義仲)の誕生を白旗に祈ります。白旗が陰の主役とも言えましょう。



源氏の白旗、平家の赤旗(須磨寺蔵)
 
「お祭り(おまつり)」 歌舞伎座昼の部

歌舞伎舞踊で江戸のお祭りを題材にしたものというと、赤坂 日枝神社(ひえじんじゃ)の山王祭(さんのうまつり)からの『お祭り』、浅草 浅草寺の三社祭からの『三社祭』と神田明神の神田祭からの『神田祭』が有名で、いずれも江戸時代後半に作られ、清元斎兵衛が作曲しました。『お祭り』は『神田祭』の詞章を一部借用して上演されることもあります。
天下祭
江戸時代は現代と比べ娯楽が少なかったので、お祭りは庶民の大きな楽しみでした。そうしたお祭りの中で、山王祭と神田祭は趣向を凝らした山車や象・ナマズなどの大きな造り物の行列が江戸城に入り、将軍の上覧を受けることができたので、「天下祭(てんかまつり)」と言われ、江戸で最も大規模で格式の高いものであったと言えます。この2つの祭りは1年ごとに本祭りと陰祭り(かげまつり:簡素な祭り)を行い、その年に本祭りを行う方の祭りが将軍の上覧を受けました。
大山(おおやま)詣り
山王祭を題材にした『お祭り』の方の詞章には、「自体去年の山帰り…」という一節があります。「山帰り」というのは「神奈川県の大山神社へのお参りから帰ること」です。平和が続き世の中が安定した江戸時代には旅が盛んになり、旅はお祭り・芝居・廓(くるわ)とともに庶民の楽しみになりました。庶民には観光旅行は許されていなかったので、寺社参詣が口実に用いられました。その代表的なものが「お伊勢参り」でしたが、関東地方の人がより手軽に行けるものとして、18世紀半ばから「大山詣り」が盛んになりました。
庶民は集団で講(こう:参詣を目的とする信仰集団)を形成し、下級神職である御師(おし)に宿所やお札・みやげなどの世話を受け、参詣しました。当時は大山(おおやま)山頂の石尊大権現(せきそんだいごんげん)に参詣できるのは6月26日〜7月17日に限られていました。江戸の講中の鳶・職人・商人などは、出発前に隅田川などで身を清め、さらに大山山麓の良弁の滝で木太刀を捧げ、水垢離(みずごり:冷水を浴び、身を清めること)を行い、「懺悔懺悔六根清浄(さんげさんげろっこんしょうじょう)」と唱えて、お揃いの白装束で大山詣りをしたとのことです。
大山信仰
大山(おおやま)は「山の神」「雨乞いの神」「豊作・豊漁の神」として古代から信仰の対象でした。奈良時代には僧 良弁(ろうべん)が雨降山(あぶりさん)大山寺(おおやまでら)を開き、その後、修験道と結びつき、神仏混淆の山岳信仰の場となりました。
鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)は太刀を納めて戦勝を祈りました。これは今でも形を変えた習慣として続き、大山寺では木刀の形をした木片にお願い事・氏名などを書いて、一つを寺に納め、もう一つを家に置いておきます。
江戸時代には大山寺に江戸幕府初代将軍 徳川家康(とくがわいえやす)や三代将軍 家光(いえみつ)の乳母 春日局(かすがのつぼね)も参詣に訪れ、同寺は家光の支援を受けて修復されるなど、栄えました。その後、先ほど記したように庶民による大山詣りが盛んになりました。明治元年に天皇が日本の元首になり、神道が日本の国教になると、江戸時代まで渾然一体となっていた神道と仏教を分離し、仏堂・仏像・仏具などを破壊する運動が日本各地に起き、大山山頂の石尊大権現は大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)上社(かみしゃ)に、不動明王を祀る大山寺本堂があった場所は大山阿夫利神社下社に改められ、大山寺本堂の伽藍は破壊されましたが、後に材木や浄財の寄進を受け、再建されました。
現代の大山詣り
江戸時代ほどではないにしろ、現在も大山寺・大山阿夫利神社にお詣りする人は少なくありませんが、現在は信仰のために集団でというよりはハイキングとして、紅葉や山頂からの眺めをたのしむために少人数でという人が多いようです。
しかし、現在でも江戸時代までの大山詣りの面影が見られます。交通が発達した現在、当時ほど宿泊者は多くないでしょうが、麓には今でもいくつか宿舎があります。大山寺本堂の左には倶利伽羅(くりから)の滝、その脇の八大童子像の前に参拝者から木刀の形をしたお札が沢山納められています。本堂には本尊の不動明王が力強く目を光らせていて、その姿は大きく感じられました。不動明王の五大力(ごだいりき:体力・智力・福力・財力・寿力)には叶えられないものはないのでしょう。太刀の刃のミニチュア形のお守りには従来からの「厄除け」「交通安全」に、近年「癌(がん)封じ」も加わったとのことです。
大山寺本堂からさらに登っていくと大山阿夫利神社下社に着きます。今の建物は昭和53年にできた比較的新しいもので、手すりや灯籠の柱に、寄付をした講や個人の名が刻まれていて、現在も江戸時代と変わらず講中でお詣りする人達がいることが分かります。
この下社から1時間半くらい登っていくと山頂に着きます。登る途中には富士山や箱根、山頂からは江ノ島や鎌倉が眺められるとのことですが、私が訪ねた時はかすんでいて、近くの山や麓の街が見えるだけでした。
山頂付近には「八番組」「鳶中」と彫られた石灯籠がありました。江戸時代に大山詣りをした江戸・浅草の町火消 八番組の鳶たちから寄進されたものなのでしょう。『お祭り』の「自体去年の山帰り」という詞章が裏付けられたようで、興味深く思いました。

八大童子像とお札 講や個人が寄付した手すりや柱 大山山頂からの眺め 鳶たちが寄進した石燈籠
 
「卅三間堂棟由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)」 大阪国立文楽劇場

この演し物は『祇園女御九重錦(ぎおんにょうごここのえにしき)』として、宝暦10年(1760)に初演されました。当時、浄土真宗の宗祖 親鸞聖人(しんらんしょうにん。1173〜1262)の500回忌を迎え、「親鸞記もの」が流行していましたが、東本願寺(ひがしほんがんじ。浄土真宗の二派のうち、内部対立を煽るために江戸幕府が支援した側。浄土真宗本願寺派)の訴えに応じ、江戸幕府は親鸞伝を扱う興行・出版を一切禁じました。『祇園…』もそうした点に配慮し、親鸞聖人の弟子 平太郎と後白河上皇が平清盛に資材の協力を得て建てさせた三十三間堂の棟木の由来のことを、それ以前の白河法皇の時代に置き換えて描いています。

文政4年(1821)に、柳の精 お柳が子と別れる悲しみを扱った三段目のみが『卅三間堂棟由来』の題で上演され、その後はほとんどその形式で演じられています。

三十三間堂
京都東山にある三十三間堂は、堂内に1001体の仏堂が並ぶ壮麗さが他に類を見ないもので、天台宗の寺院 妙法院の一部です。
このお堂が建てられたいきさつについては、以下のようなお話が伝えられています:
後白河上皇は長年頭痛に悩まされていました。熊野詣の折に出たお告げに従い、洛陽因幡堂(らくよういなばどう。現・京都市下京区にある真言宗のお寺)に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ「上皇の前世は熊野の蓮華坊(れんげぼう)という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏(どくろ)が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げました。上皇が岩田川(現在の富田川(とんだがわ))を調べさせるとお告げの通りだったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を三十三間堂の梁(棟木)に使ったところ、上皇の頭痛は治った、というものです。
『卅三間堂…』はこの言い伝えが脚色されたものです。白河法皇の頭痛の基となっていた柳の木(柳の精 お柳)が、三十三間堂建立のために、子と引き離されて都へ曳かれていく


三十三間堂、京都市

ことになりました。その時、柳の木は我が子みどり丸との別れを悲しんで動かなくなりますが、みどり丸が「木遣り唄」を唄うと動き始めるというお話です。
木遣り唄

さて、前置きが長くなりましたが、ここから「木遣り唄」とはどのようなものかを考えてみます。
木遣りとは元々、木を「遣る」、すなわち「前に進ませる」ことで、一人や二人では動かすことができない大木を、大勢の人が


歌川広重
「東京八代洲町警視庁火消出初階子乗之図」
(国立国会図書館所蔵)

力を合わせて運ぶ時に唄われるようになったものと考えられます。大勢の人足が音頭取りの音頭に合わせて、綱を引っ張り、木を運んでいきます。木遣り音頭は隅々まで聞こえるように、高くて良く通る声で唄われます。この演し物に出てくる木遣り唄はこの元々の使われ方をしています。長野県諏訪大社の由緒あるお祭り「御柱祭(おんばしらさい)」では、「山出し」「里曳き」など山から伐り出したモミの大木を神社へ曳いていく時に「木遣り音頭」が唄われていて、これも元々の意味の「木遣り」と言えます。
「木遣り」はその後、「土搗き・石搗き(基礎の地盤を突き固める)」「棟上げ(棟木を持ち上げて組み立てる)」「舟卸し(新造した舟を進水させる)」「漁猟(獲物や舟を浜辺に曳き上げる)」などその他の力仕事の時にも唄われるようになりました。
祝儀木遣り唄

さて「木遣り」というと、今では「祭礼や儀式の際に唄われるもの」というイメージをお持ちの方も多いかと思います。これはなぜなのでしょうか?
江戸時代になって治安がよくなり、庶民も寺社詣りという口実で、旅ができるようになりました。中でも伊勢神宮へのお詣りは、「伊勢に行きたい、伊勢路が見たい、せめて一生に一度でも♪」と伊勢音頭に唄われているように、大流行しました。そして、お伊勢参りをした人たちによって、伊勢音頭が全国へ広まり、「ヤートコセー」「ヨーイヤナー」など、その囃し言葉が木遣り唄へ取り入れられていき、木遣り唄は祭礼や宴会・儀式の時など、力仕事以外の時にも唄われるようになりました。これを「祝儀木遣り唄」と言います。
江戸の火消(鳶職)の間で唄われ始めた「江戸木遣り唄」は、この「祝儀木遣り唄」の代表的なもので、出初式(でぞめしき。消防関係者の仕事始めの行事)で梯子乗りを披露する際などに高らかに唄われました。歌舞伎舞踊『お祭り』などに、そうした様子が見られます。

 
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