お米の敵討ち?

伊賀越レベル 
★★★
くまどりん
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「沼津」の場面に登場するお米。平作おじいさんと一緒につつましく暮らす様子が描かれます。ところでこのお米、もとは「傾城瀬川」という遊女で志津馬の恋人。物語の発端、彼女の身請けのためのお金を巡る騒動が結果として志津馬の父・行家の死、そしてこの敵討ちへとつながっているのです。

実はこの「傾城瀬川」という遊女、江戸時代に本当に存在していました。「瀬川」は吉原を代表する妓楼・松葉屋お抱えの遊女の名前で、『伊賀越道中双六』上演当時は六代目の瀬川がお大尽に身請けされた頃でもありました。ところがこの代々続く「瀬川」の中になんと敵討ちを行った「瀬川」がいたというのです。
『翁草』によると瀬川の敵討ちは享保5年(1720)ごろ。この瀬川は本名を「たか」といい、奈良の出身。「たか」に横恋慕する源八という男の嫌がらせで「たか」の父は奈良を追放され、各地を転々として病死しました。「たか」はその後立派なお侍さんと結婚しましたが、またもや源八が邪魔をし、夫を殺し預かり金も盗んで、夫の主君はお家取り潰し。「たか」は敵討ちを決心、吉原の遊女になることで敵の手がかりを探ります。そしてついに客のなかに源八を見つけ、斬り付けました。源八は命こそ落としませんでしたが、その後すべての罪が明らかになり処刑されたということです。

ただしこの話、どうやら真偽のほどは不明。瀬川に限らず女性による敵討ちの記録は案外多いのですが、どうも女性によるということでのものめずらしさや話題性から、かなり脚色されたり、架空の話を作り出したりされていた模様。

でも、敵討ちを心ざす志津馬の恋人に敵討ちの伝説の残る傾城瀬川を配したことはなかなか興味深いですね。

傾城瀬川の敵討ちはお芝居や読み物などで人気を博し、文化3年(1806年)初演の『新吉原瀬川復讐』という浄瑠璃では瀬川の敵討ちの助っ人が唐木政右衛門の門弟に設定されるなど、「伊賀越」の世界と瀬川の伝説とはミックスを遂げていったようです。志津馬と傾城瀬川、まさに世紀の「敵討ちカップル」ですね。


参考文献:
内山美樹子・延広真治編『近松半二・江戸作者浄瑠璃集』(新日本古典文学大系94、岩波書店、1996年)
林英夫・青木美智男編『番付で読む江戸時代』(柏書房、2003年)
重松一義「江戸の仇討考」(『中央学院大学 人間・自然論叢』第10号、1999年7月)

 
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