『近頃河原の達引』
(ちかごろかわらのたてひき)
くまどりん
四条河原・堀川猿廻しの段 (鈴木多美)
文楽を代表する人気狂言ですが、その成立ははっきりしません。安永5年(1776)に豊竹八重太夫が豊臣秀吉ものの浄瑠璃の中で「猿廻し」のくだりを語ったところ大評判を取り、「猿廻し」と「お俊伝兵衛の心中」を絡めた物語を江戸や大坂で語ったそうですが内容は分らず、ようやく天明5年(1785)に人形浄瑠璃の正本が出版されました。
「お俊伝兵衛の心中」は元禄16年(1703)4月5日に米屋庄兵衛と娘のおしゅんが京都の四条河原で心中しましたが、男の名前庄兵衛がいつの間にか伝兵衛に替えられて「河原心中」の名前で音曲などで流行しました。
ところでこの心中の2日後の4月7日には大坂で曽根崎の遊女お初と平野屋徳兵衛が心中し、近松門左衛門が「曽根崎心中」の題名で竹本座で初演しました。京都の「お俊伝兵衛」と大坂の「お初徳兵衛」の二つの心中がほぼ同時期に起きたのです。お俊伝兵衛の物語「近頃河原達引」の「猿廻し」にお初徳兵衛が出てくるのは何とも不思議な偶然ですね。
「お俊伝兵衛の心中」はもう1件あり、35年後の元文3年(1738)11月にこれも京都の聖護院で呉服屋の井筒屋伝兵衛と先斗町の遊女お俊が心中したのです。流行歌と同じ名前のお俊伝兵衛の心中はさぞ評判だったろうと思います。この年は公家の家来と京都所司代の下部が四条河原で大喧嘩した事件と、堀川の猿廻しが目の不自由な母の面倒をよく見たのでお上から表彰されたニュースがあり、3つの出来事を絡めたのがこの浄瑠璃です。
現在外題は「ちかごろ」と読みますが、昔は「ちかいころ」と読んだようです。2つの「お俊伝兵衛の心中」の内、元禄版の古い方でなく元文版の最近の…「近い頃」の方の心中話だと作者は言いたかったのでしょうか。
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