この演し物は大抵「浅草雷門の段」「新吉原揚屋の段」が上演されるのみで、「生き別れになっていた姉妹が父の敵討ちを誓う」という内容であると理解している方が多いことと思います。
では題名の「碁太平記」とはどういうことなのでしょうか?
太平記の世界
原作では天皇家が北朝と南朝に分かれ、全国の武士がそれぞれの側に味方して争った、室町時代初め頃のお話という設定になっています。
第一段では楠正成(くすのきまさしげ)が吉野内裏に参上し、帝の命を受けて湊川へ出陣します。
場所と時が変わり、山城(やましろ。現在の京都府南部)の浪人、宇治兵部助は奥州白坂(現・福島県白河市)近くの森で夢を見て、正成の霊が宿って生まれた前世を知ります。同じ森で河内の浪人、金江谷五郎と出会い、二人は南朝のために尽くすことを誓い合います。
兵部助は旅の途中に岩手石堂家の剣術稽古の場に寄り、同家の剣術指南をしている、旧師の楠原普伝と再会。普伝は家中の志賀台七に天眼鏡を、兵部助に妖術を伝え、彼らとともにお家乗っ取り、天下掌握を企みますが、兵部助は綸旨(りんじ。天皇の命令を伝達する公文書)を奪って逃げ、普伝は台七に殺されます。台七は白坂城下逆井村の百姓、与茂作の田に天眼鏡を隠しますが、見つけられたため、与茂作を殺します。
与茂作の娘おきのの許婚、谷五郎と兵部助は与茂作の娘おきの・おのぶ姉妹の敵討ちを助けることを約束し、兵部助は常悦正之、谷五郎は勘兵衛正国と名を改めます。おきのは吉原に身を売り、傾城(けいせい)宮城野となります。
その後、母を亡くしたおのぶは江戸吉原に姉を訪ね、再会。常悦と浪人、鞠ヶ瀬秋夜(まりがせしゅうや)は碁の勝負に寄せて、自分が兵器の秘法を聞き出すまでは父の敵、台七を討つのを待ってくれるよう、姉妹を諭します。
最後には正成の子である常悦が新田義興(にったよしおき)を助け、高師泰(こおのもろやす)を攻め滅ぼし、南北朝は和睦します。
このように、楠正成、新田義興、高師泰など南北朝時代の人物が登場し、太平記の世界のお話であるということで、題名に「太平記」がついています。
碁
「太平記」とともに題名にある「碁」は、これまた普段上演されない場面で登場します。「新吉原揚屋の段」より後の場面で、常悦と鞠ヶ瀬秋夜が碁の勝負に寄せて、父の敵討ちを待つよう、与茂作の娘姉妹を諭すところからきています。
常悦と鞠ヶ瀬秋夜の碁の勝負では、「これなんめりと差し覗く。秋夜が石をはねかける。…そこをしきつて追ひ詰める。…この白石の敵討ち。…北朝に渡らせぬ運びが見たいなア。ヤ小賢しい黒石殿。どう逃げたうてもこの白石。ムヽ、持(せき)か劫(こふ)かとこのよし見も。」と白石で姉妹の敵討ち、黒石で姉妹の敵、鵜羽黒右衛門(うのはくろえもん)(台七)が暗示され、「覗く」「ハネ」「切る」「セキ」「コウ」など囲碁用語をちりばめて攻守を描きつつ、姉妹は仇討ちを待つよう諭されています。
ここまで見てきたように、このお芝居には「碁」が重要な役割を果たす場面があり、「太平記」の世界の物語であるため、題に「碁太平記」とついていることがわかりました。さてここからは、囲碁が日本へはどのように伝わり、受け入れられてきたのかを考えます。
日本への伝来
日本における囲碁の最も古い記録は600年頃の『隋書倭国伝(ずいしょわこくでん)』に「囲碁・すごろく・ばくちが好まれる」と書かれたことです。囲碁の起源、日本への伝来については詳しい資料がなく、不明ですが、中国か朝鮮かインド・チベットで始まり、海を渡って日本へ伝わったと思われます。
囲碁は中国では初めは陰陽道などと関係し、占いの道具として使われ、後には三国志の英雄にも好まれ、戦術の研究などにも生かされたようです。唐代からは「琴棋書画」という語も使われるようになり、風流人や学問・人格の優れた人のたしなみの一つとなりました。
|